近年あまりにも何かに依存する個人が増え過ぎてしまったせいで、いつしかSNSで通説となった「自分の機嫌は自分で取る」という格言。

これは、インターネット上でなぜだか大人気の価値観で、多くの人がありがたい教えのように尊ぶ傾向にあるのだけれども、僕は果たしてこれは本当にそれほど素晴らしい価値観なのかと、いつも疑問に思います。

なぜなら、その価値観を突き詰めると結局のところ、新自由主義的な発想になってしまうよなあと思っているから。

「他人に機嫌を取ってもらおうとするな」という言説というのは自立を促しているようで、現代の自己責任論とその本質はほとんど変わらない。

ゆえに最近はバランスを取るためにこそ「機嫌はひとに取ってもらえ」「飯は自分でつくるな」「ものは人に買ってもらって一人前」ぐらいまで言っても良いのではないかとも思い始めてきてしまいます。

それよりも何よりも、本当に大切なことは「大切なひとに不快な思いをさせるな。いつだって、周囲の他者を喜ばせることに対して全力であれ」と僕は言いたいんですよね。

これこそが、自分の機嫌を自分で取ることよりも、圧倒的に大切なことだと思っています。

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きっと、昭和世代からすると「自分(のお金)で何でもかんでもできるようになること」それが「自由」の証であり、カッコいいスタイルだったのかも知れないです。でも、今の日本はそんなことを言っていられる国ではもうなくなったようにも思います。

言い換えると、それは幻想だったということが暴かれたのが、この失われた30年の世界観であるはずで(そろそろ35年になってきた)。

それよりも本当は、いかにお互いに助け合っていくのかのほうが圧倒的に重要な価値観であるはずです。

そんな中で「自分の機嫌は自分で取るのが当たり前」「自分の自由は自分で勝ち取れ」という信念や価値観を持ち合わせている人が、それを行わずに怠けている(ように見える)ひとが目の前に現れてしまったら、助け合うことなんてできなくて当然だよなあとも思うのです。

必ず「まずは、その依存体質をどうにかしろよ!」ってイライラして突き放してしまうことは間違いないはずで。だって、自分の中で、そういう「依存体質な私」の声を制して、自らに自らの機嫌を取ろうとすることに、私自身が日々躍起になっているのだから。

実際、「自分の機嫌は自分で取れ」を印籠のように掲げるひとたちは、非常に他人に対して冷たいというか、ドライだなと思うシーンもあります。そしてきっと、ぼく自身もまわりからは、そう思われているだろうなとも思っています。

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だから、これは自戒も込めて思うのですが、それって果たして本当に幸せなことなのか。

正しい洞察なのかっていうことを、改めてこのタイミングでよくよく考えてみたいんですよね。

さらに「自分の機嫌は自分で取る」っていうのは新自由主義的でもあると同時に、「結局自分の事ばかり考えて鬱になること」にもつながってしまうと思うんですよね。

だって常に「機嫌が悪くなりそうな自分」を、自分が丁寧にあやし続けるわけじゃないですか。

それって、自分の事ばかり考えていることそのものだと思います。

そりゃあ、鬱になるのも当然です。言葉が通じない赤ちゃんとずっと一緒にいて、誰にも頼れなくて、気が狂いそうになる新米の母親と同じような状態になるのは、当然のこと。

そうじゃなくて、本当に大切なことは「あの人を支えられているうちは、自分はまだ大丈夫」という他者支援ができているという自信が、とめどなく社会の中でグルグルと循環しているような状態というのが、実は一番健全なのではないかと僕は思う。

つまり、誰かを助けている自分自身もまた、誰かに助けられているというような状態です。そうやってお互いにお互いを支え合って、ぐるっと地球を一周したら、全員が倒れずに済んでいるよね、という状態が理想的だなあと。

それが、金八先生の「人という字は〜」のあの話にも繋がるような気もしています。

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この点、「まずは自分で自分のことを満たせるところから」という価値観をあまりにも重要視しすぎた結果として、生活に必要なすべてのエネルギーを自分で賄えるようになりたいと、ローカルに移住しているひとたちって結構多いです。

彼らの生活は、資本主義から一番縁遠いロハスな生活をおくっているようにみえて、実はものすごく新自由主義的だなあと思うときがあります。

それっていうのは、現在の都会的ライフスタイルの裏返しであり、完全に表裏一体だなと。だから、そういうひとほど昔は外資系や大企業に勤めていましたというようなパターンも多い。

テレビや雑誌なんかだと、そのような選択を「大都会から一転、驚愕の選択!」みたいにあげつらうことが多いんだけれども、むしろ完全にそこは地続きなんだと思います。

ご本人や、それを聞いている周囲のひとびとは「やっと都会時代の呪われた憑き物が取れたのですね、しみじみ…」みたいな感じに話を聞いているんだけれども、僕は未だに大都会で働いていたころの我執みたいなものがめちゃくちゃに燃えているひとだなあとも思ってしまう。

「都会の価値観に染まりまくったら、最終的にはそうなるよね」と。

そうでなければ、むしろ整合性が取れない。

これは働き方や、環境の振り幅の問題ではないんですよね。むしろ、自分がその考え方に執着するからこそ、場所を都会からローカルに変えざるを得なくなるというような感じなのだと思います。

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さて、話は少し逸れますが、原始仏教において、ブッダは自分たちで自給自足の生活をよしとしていません。

もしそれがある種の真実でもあり、自給自足で「自分で自分の機嫌を取ることが正義」だったとするならば、ブッダも教団を率いて自分たちの農園をつくっていたはず。

でも、そうじゃない。托鉢を良しとしていたわけですよね。しかも、施してもらっているというよりも、分け与えてくれる人対して施しをさせてあげる機会を提供しているんだ、と。

最初にこの話を聞くと「人様から食べ物をわけてもらっておきながら、なんて傲慢なんだ!」と必ず思うはずなんですが、よくよく考えるとものすごく理に適った話で。

本当に大切なことは「ひとは一人では生きられない」っていうことに気づくことのような気がしています。

もっと突き詰めると、そもそもその「ひとり」という概念とは何なんだ、と自分自身に問うてみろ、ということなんじゃないでしょうか。


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でもこういう話をすると、今度はすぐに「自立とは、依存先を増やすこと」というこれまたよく耳にする格言を掲げてくる人たちもいます。

それはそれで違うと思っていて、過度に依存体質になることでもないと思います。ここもきっと、その答えみたいなものは、その中間や、止揚させた先にある。

繰り返しになってしまいますが、本当に大切なことは「あの人を支えられているうちは、自分はまだ大丈夫」という何の根拠もない自信、そんな他者支援のある種の妄想がグルグルと社会全体で循環している状態というのが、一番健全な状態のだろうなあと思います。

それこそが、真の互助の精神であり、より健全な社会へと続く道だと思う。現代におけるコミュニティや共同体の復興が各方面、特に若い世代から求められている理由も、きっとここにあると思います。

若者は無意識に、その本質を嗅ぎ分ける能力が凄まじいですからね。

若い世代が、他者を積極的に助けて、一方で自分自身も他者に積極的に頼ろうとしているときに、昭和世代から「自分の機嫌は自分で取れ!俺がそうしているのだから、お前もそうしろ!」という助言というのは、あまりにもよろしくない。

むしろ、時代や世代を問わず、達人みたいなひとというのは、そうやって他者が自分のことを支えているって思って根拠のない自信を得られるようにと、非常に上手に支える余白みたいなものをスッとつくっちゃえるひと。そして、目の前の相手にすっかり居場所を与えてしまう。

あの態度がいつも本当にすごいなあと思います。自分もそういう人間になりたい。


いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。 

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