昨日、こんなツイートをしてみました。

これは、一見すると非常にわかりにくい話をしてしまっているし、ともすれば誤解してしまうひともいそうだなあと思ったので、今日はこのツイートの内容をもう少し深堀りしてみたいと思います。

「コミュニティ」というものが、これからはより一層重要になっていく世の中だからこそ、コミュニティに対しての淡い期待や幻想を抱いてしまうのではなく、できるだけ正しく見定めてその真の意味を理解していきたい。そのために、なるべくわかりやすく、丁寧に書いてみたいと思います。

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この点、コミュニティに期待している人というのは大抵の場合、理想的な美しいコミュニティさえ作り出すことさえできれば(そこに私が参加することができれば)、いま自分が抱えているこのどうしようもない「孤独」が解消されるのではないか、という幻想に生きている場合が非常に多いです。

それは、若いころ誰もが怠惰な自分を肯定するために「まだ本気出してないだけ」と言い聞かせてしまう、よくあるあのスタンスにとてもよく似ています。

具体的には、こんなにも残酷な世の中だけれど、ちゃんと出会うべき人たちに出会い、囲まれるべき人たちに囲まれさえすれば、この私の辛い人生は絶対に救われるのだと。

ある種の「ユートピア思想」みたいなものだと思います。

でも、残念ながらそんなものは、どこまでいっても存在しない。

むしろ、そんなものは存在せず、その孤独と絶望に完全に打ちひしがれることができるのが「コミュニティ」という存在の真の意義だと思うのです。

そうやって、実際に参加して、自らの経験を通して打ちひしがれて初めて「犀の角のようにただ独り歩め」という教えが実現可能となるのかなと。

なぜなら、淡い期待の中に生きなくなるからです。

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これは、コミュニティという規模が大きいもので考えるから、なんだかちょっとわかりにくいと思うので、いわゆる「白馬の王子様」幻想、そして、その王子様と一緒につくる「理想の家庭」に抱く幻想で考えてみてもらえれば、もう少しわかりやすくなるかと思います。

「素敵な家庭さえできれば、私のこの欲望はすべて満たされるのではないか」

具体的には、旦那も子どもも、いつも私に対して笑顔で接してくれて、この私のことを常に愛し続けてさえくれれば、私にとっての理想的な幸福な人生が待っているのではないか、と。

でも、そんなふうに「他者」を私の欲望を満たすための「道具」のように捉えて、ギバーではなくテイカーであろうとすると絶対に不幸になってしまうというのは、以前もお話したとおりです。

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単純に、この「家庭」の規模感を大きくしていったものが「コミュニティ」だと思います。

たとえば、卑近な例になってしまって申し訳ないのですが、僕は、自分と似たような価値観や信念が近い人同士でコミュニティをつくり、そこで定期的に読書会を開催してみたら、どれだけおもしろいのだろう?と淡い期待をしていた時期がありました。

でも実際に、このWasei Salonの中で定期的に読書会を開催してみて、そのフタを開けてみると、そこで気付かされたのは、同じの本を読み終えた者同士なのに、まったく観ている景色が異なっているという真実でした。

自分の目の前で、本の感想を述べている相手に対して「まったく本の内容を読めていないじゃないか。どこにそんな事が書いていたんだよ」と絶望することもあれば、目の前の相手の素晴らしい感想を聞きながら「自分自身が全く読めていなかったんだ」と絶望してしまうこともある。

つまり、そうやって自分自身の体験を通して、人と人というのは本来的にわかり合うことはできない生き物なんだということを理解することができたんですよね。

自分は、ものすごく自分勝手な「甘美な幻想」の中に浸っていただけだったんだと。

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じゃあ、やっぱりそんなふうに「孤独」と「絶望」に苛まれてしまうぐらいだったら「コミュニティ」をつくったり、参加したりしてみても意味がないじゃないか!と思われてしまうかもしれません。

でも、そんなことは決してないんですよね。

その絶望という経験を,自らの身体を通し体験して初めて、いかに自分が都合よく世間を眺めてきたのかに自覚することもできるからです。

つまり、仏教で言うところの「無明」に対して、自覚的になることができる。

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この点、昨日Wasei Salonの中で読書会が開催された釈徹宗さんが書かれた『学びのきほん    お経で読む仏教』という本の中で「無明」について、非常にわかりやすい解説が書かれてありました。

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少し本書から引用してみたいと思います。

先ほど、苦しみの原因は執着だと述べました。苦の原因として、もうひとつお話ししておかねばなりません。それは「 無明」です。     私たちは世俗の中のゲームに沿って懸命に生きています。気がついたらそのゲームの中に放り込まれていました。もの心がついたとき、ルールのよくわからないゲームに投げ込まれたような状態でしたよね。そしてプレイヤーとして必死に生きてきました。

しかし、本当にそのゲームの本質を理解しているでしょうか。ただただ、言葉を通してわかった気になっているだけではないでしょうか。仏教では「我々はゲームの構造や本質をきちんと理解していない、自分のことだってよくわかっていない」と考えます。それが「無明」です。     

しっかりと理解した上で、そのゲームから降りる。そうしない限り苦しみは消滅しないわけです。これも仏教の共通基盤のひとつです。


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さて、いかがでしょうか。

この点、僕は、原始仏教において「サンガ(サンスクリット語で『コミュニティ』を意味する)」をつくることの意味が正直あまり理解できていなかった。

というか、完全に疑っていました。

きっと、現代とは異なり、そもそもひとに話をするときには肉声で伝えるしかなく、現場に集まることでしか情報を伝播できなかったのだろうな、とか、

どれだけ「犀の角のようにただ独り歩め」と言ってみても、やっぱり宗教だから、そもそも教団をつくらないと社会的影響力を持つことができず、それを維持・継続していくこともできないのだろうな、とか、

そうやって何か「理想」と「現実」のギャップのように理解していた。

でも、きっとそうじゃないんだと思います。

むしろ、そうやって集まるからこそ、真の意味で「孤独」を重視する仏教の真の意味での「法」を理解することができると考えられていたのでしょう。

そこで初めて、無明から解き放たれることができる、と。

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何事においても、この自分に都合の良い幻想に生きているあいだは、人間はいつまでも淡い期待のようなものを持ち続けて、その甘美な幻想の中に彷徨ってしまう。

そうやって、いつまでも偏見にすがり、世界を眺め続けてしまうんですよね。

「俺はまだ本気出していないだけ。私はまだ白馬の王子様が迎えにきていないだけ」と。

でも、それは、やっぱり人と人とが関わる中でしか、世界の本当の意味には気づけない。

そうやって家のなかで妄想にふけってダラダラ過ごすのではなく、ちゃんと本気を出してお互いに探しに行かなければいけないし、その迎えに来た相手がどれだけみすぼらしかったとしても、一歩踏み出して関係性を構築していかなければいけない。

それを、どれだけ論理だけで納得してみても意味がないんです。なぜならそこには「他者」が存在しないから。

私にはどうすることもできない、ままならない「他者」が目の前に実在するからこそ、「私は世界の中心ではない」ということに、初めてちゃんと気づくことができる。

同時に、実際に行動してみて「こんなにも自分の身体や感情というものは、自分の思い通りにならないものなのか」と、「自己の中の他者性」そのままならなさも実感できるようになります。

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対人関係に踏み出すことの重要性は、『嫌われる勇気』の中でも語られていましたが、あのお話は本当に真理なんだろうなあと思います。

「書を捨てて、町に出よう」とは本当によく言ったもので、今は「スマホを捨てて、他者と向き合おう」と言いたいところ。

今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの参考となったら幸いです。