今朝、こんなツイートをしてみました。

具体的なお名前をあげてしまうと、当事者の方々に迷惑をかけてしまう可能性もあるので、お名前は伏せますが、某DAOの中であまりにも美しいフォローを観たので、ついついつぶやかずにはいられませんでした。

じゃあなぜ、世間の会社の中では、全てを明言して伝えることが良しとされるのかと言えば、それだけ「社員」が劣化しているからなのだと思います。

教えられる側が、常に受け身の態度で参加している人間が圧倒的多数になってきた場合、現実的にそのようなコミュニケーション手法に頼るしかなくなってきます。背に腹は代えられない。

でも繰り返しますが、それは本来は野暮であって、先回りしてフォローし合う事が大切で、察し合える関係性のほうが圧倒的に重要なはずですよね。

少なくとも、僕はそのほうが粋だなあと思います。

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で、この話を書きながら思い出したのが、僕が非常に尊敬している先輩が、7年くらい前にポロッとこぼした以下の言葉。

「インキュベーションされるヤツらが劣化していく」

その時は、「ん?どういう意味だろう?」と思っていたのですが、教える側にまわることの一番の危うさとは、自分のまわりに集まってくる人たちがドンドン受け身体質の人たちばかりになってしまうことなんだろうなあと。

なるほど、あの先輩が言いたかったことはこういうことか!と改めて膝を打ちました。

「わからないことをわからないままにしておく重要性」を改めて強く感じます。

参照:わからない問いを、あえてわからないままにしておくことの重要性。 

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ここまで自分の中でモヤモヤと考えてきて、さらに思い出したのが、内田樹さんが頻繁に語ってくれている『張良の沓』という能楽のお話。

非常に示唆深い内容なので、以下で少し引用してみたいと思います。

    能楽に『張良』という話がある。

    漢の高祖の臣下が黄石公という武芸の達人から奥義を学ぶ物語である。
    張良はあるとき、馬上の黄石公と行き会う。すると石公はわざと左の沓を落として、「おい、拾ってくれ」と頼む。張良はむっとするのだが、仕方なく沓を拾って履かせる。次に石公に会うと今度は馬上から両足の沓を落として「おい、拾ってくれ」と頼む。さらに「むむ」とする張良だが、その沓を拾ったとたんに武芸の奥義を究め、石公また「秘曲口伝を残さず伝え……」というお話である。

    この物語は伝統的な師弟関係の本質をみごとに活写している。
    張良が石公から学んだのは、「武芸の奥義」ではなく、「武芸の奥義へのアクセスの仕方」である。

    張良が「私は武芸を学びたいのであって、あんたの薄汚い沓なんか、拾うために、ここにいるんじゃないよ」と口を尖らせて抗議したなら、石公は黙って立ち去っただろう。

引用元:https://www.cokes.jp/pf/shobun/h-old/utida/03.html 


落とされた沓の意味を察しようとしない人間ばかりが集まると、お互いに言語化してハッキリと明言していきましょう、となります。

そんな野暮な空間にいると、指導者としての「優しさ」と、弟子としての「学びのマナー」の意味を、根本から履き違えてしまって、周囲に合わせて自分の感性までドンドンと劣化していってしまう。まさに朱に交われば赤くなるというやつです。

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さて、ここから少しだけ自分の話になってしまって恐縮なのですが、僕が会社をつくって、驚いたことのトップ5に入ることは、社員同士で結託して「ちゃんと言葉にして伝えてくれないと、わかりません」と言われたこと。

社員の中では、「鳥井弘文問題」と呼ばれていたみたいです。

その時も今のように毎日ブログに書いて「この方向性だよね」とノウハウではなく「ビジョン」を描き続けて必死で伝えてきたつもりだったので、この申し入れには正直結構驚きました。

こんなにも優秀な人間が揃っているのにもかかわらず、そうなるのだから、世間の会社ではより一層、具体的な指示待ち人間になることも当然で、それに困り果てた経営陣やマネージャー陣は救いを求めて「わかりやすい言葉にして伝えよう!」というセミナーやビジネス書が飛ぶように売れるわけだと実感しました。

ただそのときに、個人的な体験として、社内に社員を増やしていく方向性はどこか間違っていると明確に察したのだと思います。なるほど、僕は少なくとも現代における経営者として適切ではないのだと。

僕は、何かを手取り足取り教えたいわけではない。上記の内田樹さんの記事の中で言及されているような、自動車教習所の講師になりたいわけではない。

信頼できる仲間と共に、共に創るを実現したいだけなのです。

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さて、ここまで読んできてくださった方々は、なんだか抽象的で小難しい話かなと思うかもしれないけれど、『スラムダンク』に喩えると、安西先生と桜木花道の関係性のような至極単純な話でもあります。

桜木花道は、ほぼ何も喋らない安西先生に導かれて、最終的に桜木が自分自身でその答えにたどり着きますよね。まさにあのような状態。

でも、世間は口数の多い田岡監督のような指導者を求めるか、華麗なプレイングマネージャーを務める藤間のような存在を求めてしまう。それは完全に教えられる側の劣化に原因があると思います。

そうではなく、口数の少なさに対して「なぜ?」と、自ら学びを獲得していく。「なるほど!そういうことだったのか!」と。そのときに、ほんとうの意味で、自己の中で「断固たる決意」が固まるわけですよね。

そのための行動指針のようなものは、既にその気付きや発見を得ているひとたちがありとあらゆる形で残してくれている。

僕らに必要なのは、「学びのためのマナーを学ぶこと」。自らの学びのスパイラルを駆動させていくことだと思います。

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いつまでも他人に具体的に教えてもらえなければ、動けないような状態ではダメなのです。

でも、そのような人間が世間に多いことをちゃんと理解している賢いひとたちは、自分の影響力を高める目的のために、「猿でもわかる〜」というように手取り足取り答えを与え、それを「優しい世界」だと喧伝する。

でも、そのような声の大きなひとに騙されずに、本当に自分にとって「優しい世界」とは何かをちゃんとゼロから考えてみたほうがいい。

さもないと、ドンドン自分の学ぶ意欲が減退していき、自ら学ぶということをしなくなる。何か指導されないと、何も動けない人間になる。

僕は、時代と逆行していたとしても優れた指導者は、安西先生タイプだと思う。

そして優れた学習者というのは、桜木花道のようなひとだと思う。

自分も学習者として、そして指導者として、このようなスタンスをこれからも貫いていきたいなあと思います。

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さて、これからは「言われなきゃわからない」から「言われなくてもお互いに先回りして動く」ということが、本当の意味で必要になっていく世の中になると思います。

過去10年間とは真逆の行動指針が求められるはずです。

今のNFTやDAOの世界には、そのように自分から進んで学び、自分から進んで察してフォローし合うひとが揃っている。これって本当にすごいことだと思います。

もちろん、これも今だけのフェーズで、また5〜10年後ぐらいにはDAO活動がキャズムを超えて一般的になってくれば、インキュベーションされるやつがまた劣化していく。

ただ、少なくとも最低5年間ぐらいは、この粋な世界観が続くはず。

会社のマニュアルだらけの世界観にうんざりしているひとは、きっとこっちの世界線のほうが合っているかと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているひとたちにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

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