最近また「デジタルアイデンティティ」の話題が語られるようになってきました。

これは、新しいように思えて、ずっとインターネット上で議論されてきてるような古い問題でもある。

この点、僕がいつも思うのは、デジタルアイデンティティというのは、センスやまとっている空気感の問題であって、決して「◯◯すればOK」という話ではないということです。

でも、一般的に多くのひとは、何か「明確な正解」があると信じて疑わないから、結果的にみんなが同じ行動をするようになる。

すると、必然的に「量産型◯◯」が完成していきます。

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2010年代の初頭、女子大生のファッションがみんな同じになっていくことが揶揄される形として生まれたこの言葉ですが、インターネット上における個人の振る舞いやデジタルアイデンティティにおいても、全く同様の現象が起きてしまうんですよね。

具体的には、ブログのデザインやSNSのプロフィールやアイコン、そしてTwitter構文のようなものが誕生していって、みんなの思考回路が並列化されていき、その振る舞いがすべて横並びになってしまい「コスプレ」となるというような。

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でも、このお話が、なかなか伝わらない。

ファッションに置き換えれば「センスのいい格好とは何か?黒いスキニーパンツを履いておけば大丈夫!」みたいな非常にわかりやすい言説にすぐ飛びついてしまう現象と全く同様。

本来、そのひとの体型や個性、纏いたい雰囲気によってひとりひとりの最適解というのは全く異なるはずです。

でも影響力が大きく、声が大きい人が断定的に語ると、何かの号令がかかったようにみんなが同じ「装い」になり始めるんですよね。

そんなときこそ、一度ご自身の頭の中で思い返してみて欲しいのです。

あなたがセンスがあるなあと感じるひとは、本当に量産型の中に存在しているのか、と。

むしろ常に、その量産型から一定の距離をおいて、自分の頭で考え抜いて私の個性をちゃんと理解し、少しずつズラしてきたひとのほうにいるのではないでしょうか。

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それはつまり、社会の中の「流行」と自らの「美意識」の交差点を常に探ってきたひとだと思うのです。

「アイデンティティ」とは何かを常に自分の頭の中で考えて、その自らの「美意識」の解像度を高め続けて、決して独りよがりになることもなく、他者に不快感を与えずにTPOも踏まえた上で、その「美意識」は絶対にブレることがないひと。

つまり、自らの内側を深堀りしていくしかないはずで、それは私が私に問い続けるしかないはずなのです。

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だからこそ、デジタルアイデンティティの文脈においても、誰かが掲げた「これをやっていると正解」を盲信することは、むしろ逆効果なんだろうなあと僕は思います。

にもかかわらず、多くのひとは、不安で惨めな失敗だけはしたくないから、外部に絶対的な正解を求めてしまう。

昨日のブログにも書いたように、日本人というのは本当に不思議な「自由」に対する解釈を持っていて、ガチガチにルールを固められたほうが、自由を感じてしまう民族なのです。

まさに「自由からの逃走」をすることで、自由を獲得しているだと錯覚してしまう。

参照:NFTを長期保有してもらうためには座禅か、SBTか。

だからこそ、そういう答えを書いてくれていそうな高額な有料コンテンツ(情報商材)や、高額なオンラインサロンにもホイホイと課金してしまうのでしょうね。

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この点、一方で確かに、きほんの「き」みたいなものはあると思います。

あと、これをやったら絶対に失敗するみたいな踏み込んではいけない領域も同時に存在している。

その基本と、絶対に失敗するという地雷を踏まないことは、本当に大切なことだと思います。

でもそのような情報というのは、既にタダでいくらでも転がっているんですよね。

良質でわかりやすいコンテンツが、それこそYou TubeやTwitter、ブログなんかにも、たくさんまとめられていて日々あの手この手で発信されています。

でも、そのようなきほんの「き」みたいなものは、なんだか面倒くさそうだから、(ファッションの場合はまず痩せて体型を整えましょうとか、色相環を学びましょうとか)、自然と目や耳に入ってきているにも関わらず、ついつい見て見ぬ振りをして完全に無視してしまう。

そして、もっと楽で即効性のありそうなものを追い求めてしまう。

その結果として、詐欺師のようなひとたちから、足元を見られるわけですよね。

堂々と「私はその答えを知っています」と嘯くひとのファッションセミナーやオンラインサロンに高額なお金を払わされてしまう。

そこでやってくれていることというのは、センスのいいセレクトショップの店員さんの無料のアドバイスなんかと、ほとんど変わらないにも関わらず、です。

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もちろん「うまくいっているひとのことを真似するな」と言うわけではありません。

むしろ、最初はうまくいっているひとのことを徹底的に観察して、鵜呑みをするように真似したほうがいい場合が多いのも事実です。

「彼らが一体どんなモノ選びをしているのか、どんな合わせ方をしているのか」を徹底的に分析する必要がある。

ここもまた、非常にむずかしいところ。

矛盾するようですが、結局また「指月の譬え」の話に戻ってくると思っています。

うまくいっているひとの指それ自体を見るのではなく、うまくいっているひとが指している月のほうを観てみること。

そして、その月のある方角を目指し続けた結果、うまくいっているひととは、まったく異なる選択肢を自分は選択したほうがいい場合も必ず訪れる、ということです。

参照:コスプレがしたいのか、新たなスタイルを創り出したいのか。

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どちらにせよ、最終的には「他人に形式的な答えや正解を求めてしまう、私とは何か?」に絶対に立ち返らなければいけない。

結局のところ「自分で考えることが放棄したかっただけじゃないか」とハッと気がつくところからしか、自分の人生は始まっていかない。

そのうえで、シンプルなことを徹底する。基本的なことを淡々と毎日実践する。

そして、他でもなく、この私の畑を耕すこと。

私以外の誰も、私の畑を耕すことを担ってくれるひとはいないのだから。

決して他人の畑の肥やしになってはいけない。私は私の畑を耕す、その責務をまっとうすることが本当の意味で「私を生きる」ということだと思います。

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もし、何か人間の「狂気」のようなものがあるとすれば、そのシンプルさを徹底的に追求した先にあると僕は思っています。

ファッションとはいつもひとりの「狂気(ファッド)」から始まるのだから。それがトレンドとなり、スタイルへと変容し、最終的にはトラッドになっていく。

参照:「ファッド→ファッション→スタイル→トラッド」最近の若者の中にある“道にしたい欲求”について。 

いつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても何かしらの参考となったら幸いです。