70歳以上の高齢者が、重たい病気などにかかったあとに現役に復帰すること、それが本当に素晴らしいことであり、輝かしいこととして当たり前のように語られているような昨今です。

次の世代の若者に道を譲ることよりも、生涯現役であること、そうやって若者と張り合って自らの生きがいにつなげることが、これからの高齢者としての理想的な生き方なんだとされているような気がします。

もちろん、これは本人の自由だから、決してそれ自体は否定はしません。本当にそれぞれの生き方の選択に尽きる。

ただ、僕が思うのは、それが社会一般的な「理想的な状態、讃えられるような状態」であると考えられている世間の空気自体に対しては「果たして、どうなんだ?」と正直疑問に感じます。

なかなか表立って語りにくい話ではありますが、今日はそんなお話を少しだけ。

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この点、国内に高齢者が増える中で、そのような生き様が、同じく高齢者である同世代に対して、夢や希望を与えるという構造になっていて、その結果として、そのような状況に陥ることは、非常によく理解できます。

生涯現役を貫いている、もしくはそれを目指して病から復帰する姿というのは、同世代から拍手喝采で迎え入れられるに決まっていますからね。

なぜなら、人間なら誰しもが、過去の後悔を未来へ逆投影していて、ソレをよすがにしながら生きているような状態が必ずあるわけですから。

自らも同じようにその逆投影しているものに対して、その実現可能性を見せてくれて、そこに希望を見出そうしてくれる存在は、何よりもありがたいに決まっています。

たとえば、僕自身だって、30代なかばに入ってきて、40代がそろそろ現実に見えてきている中で、30代に負けず劣らず元気な40代のジャニーズのメンバーなんかを見ると、純粋に希望を抱かされます。これは間違いなく、自分の「過去への後悔」の逆投影し、そのままそれを実現している存在に見えるからなのだと思います。

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でも僕は、それこそがプラトンの「洞窟の比喩」そのものなのではないかと思うわけです。

むしろ、もっともっと現実を見て欲しいなあと願わずにはいられない。

現役世代と、張り合う高齢者たちを「若々しくて素晴らしいですね!」と褒めることは社会的に許されても、「いやいや、もう引退しろよ」とは口が裂けても言えない現代の状況や空気は、実はかなりおかしい状況なんじゃないかと思う。

それこそが、超高齢化社会の一番の弊害のようにも僕は思います。

言い換えると、同じような年齢の世代が世論の中には多く、そのひたむきさに対して共感や感動してくれるひとが単純に世の中に多いというだけである、という意味でもあります。

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これは、僕自身が大好きな宮崎駿監督に対してだって、正直そう思わざるを得ません。

『君たちはどう生きるか』に続いて、もう1作品を既につくり始めているというふうに情報が出回っていること自体は、ジブリファンとしては本当に死ぬほど嬉しいことです。それは間違いない。次回作もぜひとも観てみたいです。

だけれども、その生涯現役を貫くこと自体に、そこまで諸手を挙げて賛成できることなのかと問われれば、正直疑問が残ります。

変な話、ある種の「うしろめたさ」のようなものを持ちながら、次回作もつくって欲しいなあと願わずにはいられない。間違いなく、現役世代の活躍する場を奪っていることには違いないのだから。

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でも現代社会で、こういう話をすると、すぐにきな臭い方向へと向かってしまう。

具体的には、成田悠輔さんの集団自決発言みたいな話だったり、映画『PLAN 75』のような安楽死を認めろだったり、そういう類いの議論です。

でも、僕がここで言いたいことは、決してそういう話じゃない。

この世界には、もっともっと異なる「いきがい」があるでしょう、ってことなんです。

「寂しいこと言うなよ、もう少し共に生きようよ」というのは本当にそのとおりで、僕も、高齢者がこの世から居なくなって欲しいなんて一ミリも思っていない。

むしろ、その歳になったからこそ今見えている景色を、もっともっと現役世代にたくさん教えて欲しいなと強く思います。だからこそ「文化」の復権だろうと思うんですよね。

「若い人も活躍できるような、その役者が限られた同じ舞台のうえで一緒に輝こうとするなよ」と。

言い換えるならば「ビジネス一辺倒であろうとするなよ」という話です。

年相応になったら、ちゃんと隠居のようなことをして、いま完全にこの国で枯れてしまっている「文化」のほうをちゃんと復権して欲しいなと。

それがあなた達の世代の責務なんじゃないですか、と思うわけです。養老孟司さんが、東京大学を定年よりも早めに引退して、ご自身が大好きな虫と向き合っていることは本当に素晴らしいことだなあと思います。

そして、そこから得られた気付きや発見の言語化は、現役世代の僕らにも非常に学びがあることでもある。

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この点、なぜか現代社会は、いい年しても文化的な側面に疎いことが、まったくカッコ悪いことじゃなくなってしまっている。

それよりも、永遠に「少年」であること、ビジネスで成功していることこそが、一番理想的な生き方だとされてしまっている。

でも、そんなわけないだろうと思うんですよね。

ちゃんと成熟する大人たちがいたからこそ、そういう「永遠の少年」のような存在も、同時に輝く存在であることは間違いないわけで。全員が「永遠の少年」なんかを目指してしまったら、世界は絶対にまわっていかないことは、誰の目にも明らかだと思います。

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にも関わらず、高齢者が生涯現役を目指すことや、30代〜40代の頃から全身全霊で取り組んできたビジネスと何一つ変わらず、そののまま生涯を全うすることがカッコいいことになっていることは、やっぱりどこかおかしいのではないか。

それは、実は「カッコ悪いことなんだ」というふうに、世間の常識や価値観のほうを変えていかなきゃいけない気がします。

具体的には「えっ、まだ東京ドームや武道館で歌ってるの?」っていうふうに。

舞台に立つ側も「ファンから求められるんだから、仕方ないじゃないか」という大義名分があるのだろうけれども、自分から降りようとしなければ、ファンはいつまで経っても、そうやって期待してくるに決まっています。

なぜなら、そのアーティストの存在自体が自分の青春そのものなんだから。ファンというのはいつだってそういう存在であって、いつまでも無責任に自分のことを舞台のうえに押し上げてこようとする存在なわけです。

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たぶん、生涯現役であろうとする人たちの言い分としては、自分みたいな老人でも現役で活躍していることが、世間に対して「多様性」をもたらしていると思いこんでいるはずなのですが、僕はそれが、本当に傲慢な発想だなあと思ってしまいます。

むしろ、それは「多様性」の真逆のことをしているとさえ思う。

なぜなら「ビズネスの舞台”だけで”活躍する」というような、ひとつの価値基準でしかないわけだから。「この世界は、仕事してなんぼ」というような世の中の思い込みを、むしろより強固なものにしてしまっているわけですよね。

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生きることは決して、「生涯現役」や「ビジネスの舞台に立ち続けること」だけではないはずで、それをぜひ今の高齢者世代には、身をもって証明して欲しい。

「生きる」ことの意味、その価値基準自体を多方面に増やしていくことのほうが、よっぽど「多様性」の話につながり、本当の意味での社会貢献にもつながると思う。

「いい歳をして、いつまでも過去の後悔を未来に逆投影するのをやめてくれ」と思わずにはいられません。

それは、いつまでも輝いていた大学生活を忘れられずに、社会人になってもサークルの飲み会にやってくるOB・OGとその本質は何も変わらない。

そんな人ほど、俺が(私が)やって来ることは後輩たちにとって良いことだと信じて疑わない。でも、そんなわけないじゃないですか。ぜひ学生側だったときの気持ちを思い出してください。

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大事なことなので繰り返しますが、決して「生涯現役」自体は否定はしません。それは本当に個人の自由だと思います。

でも、そういうひとは、ある種の「うしろめたさ」も同時に抱えるべきなんじゃないかと思います。「本当に、俺にはこれしか存在しないんだ」というふうに。

若い現役世代からも、ちゃんと「白い目」を向けるようにしながら、世間の空気自体を変えていく必要があるんだろうなあと。現役に復帰しようとすることは「みっともない(見とうもない)ことですよ」と。

これから高齢者になっていく団塊ジュニア世代も含めて、そんな文化の復権を目指して、「生きる」楽しさや、本当の意味での「はたらく(※働くではない)」の多様性、ぜひこの世界にもたらして欲しい。

若々しくいつまでも「いきがい」を持っていることと、従来の地位や権力に残り続けて生涯現役でビジネスを続けるということは、全くその意味合いが異なるわけですから。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となたら幸いです。