「コミュニティ運営は、新しいCGMをつくっているような感覚に近い」という話は過去にこのブログには何度か書いてきました。

ちなみに、CGMとは「Consumer Generated Media」の略で、消費者が自ら生成したメディアコンテンツ及びそのプラットフォームを指します。

Wasei Salonにおいても、タイムライン、ブログ、対話型オンラインイベント、そして最近だと「非同期型の対話」コンテンツとして、スタエフやPodcastのような音声コンテンツをメンバー同士で公開し聴き合うという流れも生まれています。

これらはすべて「ここに置いておけば、きっと誰かが読んでくれる、聞いてくれる」という信頼のもと成り立っているなあと思っています。

そこでは、余計なことを考えすぎずに本音を語っても許されるし、それで思わぬ角度から石が飛んでくることもない。

そして、最近のスタエフなんかはその中でも顕著だと思うのだけれども、もはや実際に聴かれているかどうかは、さほど重要ではない状態にもなってきています。

この状態においては、自ら発信してみること自体に価値がある。

それを繰り返す中で、自分が何かを得ている感覚、自己が刷新されている感覚があれば、人はその場に居続ける理由を自ら見出してくれる。まさに「逆パノプティコン」状態だなあと思います。

今日はこのような「受け取り方のマナー」重視のCGMのつくり方、その可能性について改めて丁寧に考えてみたいなと思います。

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この点、従来は良いコンテンツを提供し、それをつくってくれる優れたクリエイターを集めれば、自然とそこにプラットフォームが結実すると考えられてきました。

実際に、現在でもこれが主流で王道のアプローチです。

しかし、この方法にも限界がある。

例えば、Netflixのような高品質なコンテンツを提供しているプラットフォームでさえ、常にメンバーの解約を防ぐのに苦心しています。

どれだけ優れたコンテンツを提供し、そこに優秀なクリエイターを集め続けても、ユーザーの維持は困難を極めるわけですよね。

このような状況下で、単にコンテンツのクオリティを上げることは、もはやレッドオーシャンと化しています。

だから僕が実践したいのは、これまでほとんど手入れがなされていなかった「受け取り方のマナー」のほうなんです。まさに「押してダメなら引いてみろ」精神です。

受け取り方が整ってさえいれば、コンテンツ制作者(ユーザー)側からすると、とても気持ちの良い観客が揃っているコンサート会場みたいなものになるわけだから、自然とその場においてはコンテンツを出し続けたいと考えるようになるはず。そしてもちろん、その関係性は常にスイッチもされて入れ替わりつづけていくわけです。

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では、具体的にどのようなマナーが必要になるのか。

これを考えるには、いま完全に抜け落ちていること、世の中の不和の原因になっていることは何かを探る必要があるのだと思います。

それこそが時代のニーズを読み取ることにもつながっていく。

そのためには、過去これまではどのような問題が起きたのか?を振り返るのがいいのだと思います。

この点、これまではメディアから与えられるものに対して、どれだけ石を投げても個人なら許されていた。

その批判される反作用の力もある種利用して、共存共栄をしてきたのが従来型のマスメディアです。

それができたのも、明らかな権力関係のズレがそこにあったからですよね。でもそれが集団になると思わぬ力を持つことも判明した。個々のコメントは取るに足らなくても、それが集団になったときには暴徒化するみたいな話です。

発信側も圧倒的に個人クリエイターが増えた。テレビ局のような大きな既存の権威で守られることはなくなったわけですよね。飛んできた石はすべて個人宛です。

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また、そのようにして石を投げてもいいと思っている人々は、往々にして「自分は正しい。確固たるものとして、自己は存在する」と信じている。

そのような信念の人々が一箇所に集まれば、すぐに喧嘩が始まり対立が深まるのは当然のことです。

でも本当は、自分のほうを変えないと、世界は変わっていかないんですよね。

もっと言うと、それぞれが受け取り方を変えることで、相互の関係性のなかに信頼関係が構築されて、そのコミュニケーションの”あいだ”に立ち現れるものこそが、本来の自己なのだから。

その「自分が変わる」というおもしろさのほうをしっかりと伝えて、自らで体験してもらい、そこから生まれてくる自分自身に驚いてもらうことが何よりも大切なのだと思います。

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逆に言えば、従来のCGMは「変わらない私」の意見がまずあって、それがプラットフォームのおかげで、多くの人に届いてバズってチヤホヤされて、お金も得られて私の人生がガラッと変わってしまうというその実体験や、期待感を煽ることがその役目でした。

でもそれはもう幻想で、実際それで成功した人間も全然幸せそうではないということがバレてしまった。

だとすれば、受け取り方のマナーからから変えていき、自分のコンテンツの出し方がガラッと変わり、自分の手によって、自分自身を自己刷新していくその快感を得てもらうことのほうがだいじなんだろうなあと。

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で、たとえば、その具体的な事柄のひとつにスタエフがあると思っていて「みなさんもスタエフをやりましょう!」と呼びかけたのは僕なんだけれども、ここまで効果があるとは正直僕も思ってもみなかったです。

きっとそれだけ、何か決まり切った答えがない中で、ただポツポツと話し始める、それがもしかしたら誰かに届くかもしれないという淡い期待感を得られる場が、これまで存在しなかったんだと思います。

「あなたは、私に対してどれだけ有益なことをコスパやタイパよく語ってくれるの?」という無意識の態度が、仕事やオープンなSNSに限らず、いまや家庭や夫婦関係においてもそのような価値観が覆い尽くしてしまっているのかもしれない。

だとしたら、ただ台本もなく話せる空間、そしてそれが一方通行で誰にも聴かれないで無惨に消えていくのではなく、ここに置いておけばメンバーの誰かが聴いてくれるかもしれない、そんな期待ができる空間があることは、確かに稀有な事柄だったんだろうあと。

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また、自分自身がそうやって音声コンテンツを出していくうちに、他の人が何を出しているのかを聴きたいというニーズだって自然と生まれていく。

なぜなら、自分がこれだけ「自己が変わる」体験ができているのだから、ほかのひとも同様に、その体験を経たコンテンツを提供しているはずであるという期待が働くから。そして、その目線で見に行くからこそ、相手のまとまりのない話も、おもしろく感じられる。これも受け手の目線やマナーの話なんです。

その期待があるからこそ、面白く見えるという魔法がかかっている状態でもある。自分がやったことがあることは他者がやっているのも眺めてみても、自然と面白く見えるもの。

結果的に、お互いに相手の言葉に対して耳を傾けあう文化が生まれるわけですよね。これまでになかったプラスの循環がそこに生まれるわけです。

僕も含めて、ひとは本当にわがままなもので、まなざしがありすぎても怖い。なさすぎても張り合いがない。その調度いい塩梅を常に模索しています。

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既存のプラットフォームの場合、なるべく極端な考えを持つ者同士を鉢合わせさせて、まだコンテキストも共有されていない中で、なるべく癇に障る相手に届かせること。そして、そこに意図的に不和を生じさせて、議論を生んだほうがプラットフォームとしては都合がいい。

炎上や喧嘩が始まれば野次馬が集まってきて、そこに広告を流せるから。

でもそれは僕は悪魔との契約だと思う。

日本人の4行モデルにおいてもまったく適していない。ストレスが大きすぎるし、持続可能性もない。

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繰り返しますが、何をユーザー(作り手)に出してもらうか、ではなく、どうやってユーザー(受け手)に受け止めてもらうか、の方向から本格的にテコ入れをしていく必要がある。

今のインターネットには、それが圧倒的に欠けていることだから。

誰も手を出してこなかったジャンルでもある。また、それは既存のマスメディアの場合、実行したくてもできないことでもある。

テレビや新聞が「視聴者(読者)のみなさん、我々のメディアのコンテンツは、こうやって受け止めてください」なんていまさら言ってみたところで、散々他人の反感を煽り利用してきたのだから「一体どの口でそんなことを言っているんだ!」苦情が殺到するだけ。

あまりにもメディア自体が大きくなりすぎてしまうと、そのコントロール可能性を失ってしまうわけですよね。

つまり、受け手のマナーから変えていくというのは、ものすごくエコロジカルニッチなことでもあるわけです。小さいからゆえにできること。そしてものすごく時間がかかることでもある。

実際、Wasei Salonもその文化が確立するまでに5年以上の歳月を必要としました。でも、丁寧に耕していくと、そうやって基盤が少しずつでも必ず整っていく。

もちろん、オシロさんのような一気通貫でコミュニティ運営をできるプラットフォームが存在してくれていることも、本当に大きいです。

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最後に強調しておきたいのは、この取り組みは決して「操作」をするような話ではないということです。

むしろ、受け取り方の規範意識、その向かいたい方向性をしっかりと表向きに提示し続けて、そこに共感してもらえる人たちを中心に、集まってもらうことに力点を置いています。

だから、「変わらない私」という前提で、他者を批判するような受け取り方が間違っているわけではない。それはそれできっと、1つの生き方でありスタンス。

ただ、この場においては、その受け取り方はマナー違反で不適切だから、ここには来ないでください、ということを明示的に伝え続けることが、大事だと思っているという話です。

なにはともあれ、今、この「受け取り方のマナー」から変えていくアプローチは、本当にとても重要なことだと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。