先日、イケウチオーガニックさんと坂ノ途中さんのPodcast番組「なんでやってんねやろ?」の中で非常に興味深く、学びの多い話に出会いました。

それが坂の途中・小野さんが語られていた「コウモリ」のような経営スタイルを目指すというお話です。

一見すると少し変わった比喩に聞こえるかもしれませんが、今日はこのお話の詳細をこちらのブログでも紹介しつつ、それを聴いて僕が思い出したまた別の物語と、これからの時代を生きるうえで個々人が向かうべき方向性について自分なりに考えてみたいと思います。

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まず、坂ノ途中・小野さんが言及したイソップ童話のコウモリの話からご紹介してみたいと思います。

この物語では、鳥と哺乳類が戦争をする物語で、コウモリが自分の立場をどちらにも明確にできず、結果的に両方の陣営から拒絶されるというエピソードになります。

コウモリは鳥の集団に対して「自分も飛べるから鳥だ」と主張してみるものの、「いや、君は哺乳類だろう」と拒否される。

そこで今度は哺乳類の集団に行くのですが、今度は「飛んでいるから君は鳥だ」と判断され、こちらでも受け入れてもらえない。

そして、この寓話は、中途半端な形態のコウモリが、結局どちらの集団にも完全に属することができず、自らの居場所を見つけられないという状況を、描いているような物語のようです。

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ただ、実は、この話には続きがありました。Podcastの中で、小野さんは曖昧な記憶として語られていましたが、少し調べてみると、イソップ童話「鳥とけものとコウモリ」もしくは「ひきょうなコウモリ」として、本当にちゃんと実在していたようです。


そして、この寓話の本来の教訓というのは、立場を明確にせず、都合の良い方にだけ加担すると最終的には仲間はずれにされる、その危険性を教えるものだったのです。

コウモリは鳥と獣の戦いの際に、どちらが勝つか様子を見ながら、自分に有利な方に加わろうとしますが、結局どちらにも信用されず、最後にはどちらからも排除されてしまうという教訓ものです。

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しかし、坂の途中・小野さんは、このコウモリの立場を自社の状況に重ね合わせて、まったく新しい異なる解釈を提示していたんですよね。

小野さんは自分たちの会社が、スタートアップ企業としての側面と、農業に関わる土臭い側面の両方を持っていることが、むしろ強みなんだと。

具体的には、スタートアップの集まりに参加すると「地味すぎる」と評価され、逆に農業関係者の中では「商売っ気が強すぎる」と感じられてしまうことが多いそうです。

つまり、寓話の中のコウモリと同様に、自社もどちらの集団にたいしても完全にフィットしない中途半端な存在だと認識しているわけですよね。

しかし、小野さんはこの「どちらにも属さない」立場自体を、むしろ強みとして捉えていていて、その話が本当におもしろかったです。

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小野さんは自社が「汽水域」(淡水と海水が混ざり合う地域)や「コウモリ」のような存在であることを肯定的に受け止めて、その独自性を活かしたうえで、異なる世界の橋渡し役を果たすことができるはずだと主張されていました。

例えば、スタートアップのコミュニティに対しては農業の視点を、農業のコミュニティに対してはビジネスの視点を提供し、どちらの集団にも新しい価値をもたらすことができると述べられていて、それが本当に潔いというか、かっこいい話だなあと。

この「橋渡し役」としての役割は、実際の経営方針にも強く影響を与えているようで、スタートアップ的なアプローチと農業やオーガニックの価値観を掛け合わせ、双方のコミュニティの間に新たな価値を生み出すことを目指しているという趣旨のお話が、番組内では語られていました。

詳しくはぜひ、本編を直接聴いてみてください。


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で、僕がこのコウモリの話を聞いて思い出したのは、心理学者・河合隼雄さんがしばしば紹介されてい日本の昔話『片子』の物語です。

この日本の昔話は、コウモリの寓話とは異なる角度から、社会に受け入れられない存在の苦悩みたいなものを描いている作品です。

「片子」のあらすじをAIに作ってもらったので簡単に紹介しますと、

ある日、木こりがあんこ餅が食べたくなり、鬼と取引をして、妻を鬼に差し出してしまいます。鬼は妻を連れて鬼ヶ島に帰り、そこで人間の女性と鬼の間に「片子」という子どもが生まれます。

片子は、体の左半分が人間、右半分が鬼という特殊な姿をしていた。

片子は成長し、10歳ほどになったある日、両親を助けて人間の世界に帰ることを決意する。片子の助けで無事に人間の世界に戻ることができた両親でしたが、片子の姿を見た村人たちは恐れおののき、片子を受け入れようとしませんでした。

結局、片子は自分の存在が両親の幸せを邪魔していると感じ、自ら命を絶つことを決意します。両親も片子の決意を止めることができず、片子は最終的には自殺してしまいます。


この物語の教訓は、異質なものを受け入れられない社会の姿や、そのような社会に抗えない親の弱さ、そして板挟みになった子どもの悲劇などを描いていて、河合隼雄さんは日本人の心性や、文化を考察する上で重要な物語として、しばしばこの「片子」の話をご自身の著書の中で取り上げていました。

いろいろな書籍の中で言及されているので、きっと読まれたことがあり記憶の片隅に存在していたという方も多いかと思います。

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で、イソップ童話のコウモリの寓話も、この片子の物語も、一見するとバッドエンドの教訓話として語られがちだと思います。

しかし、坂の途中の小野さんの話を起点にして、僕らが学べることは積極的で前向きなメッセージとして受け取ることもできるのではないか、ということです。

小野さんが、自社の立場を「汽水域」にたとえたように、境界線上に存在することは、それは唯一無二であり独自の存在でもあるわけですから。

まさに、海水と淡水の「あわい」に生息する生物が独特の生態系を形成するように、異なる世界の境界線上にいる存在には、双方の世界を理解し、双方をつなぐ役割を果たせる、そんな可能性があるわけですよね。

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この点、確かにコウモリや片子のような存在であっても、どちらかの側に完全に属することを選択してしまうこともできるでしょう。

しかし、そうすることで必ず自らの中で後ろめたさが残り、本来の自己を失ってしまう危険性があると思います。それはガンディーの若き弁護士時代の話や、フランツ・ファノンの『黒い皮膚・白い仮面』みたいな話を持ち出さなくとも、きっとすぐに理解できること。

むしろ、その「中間的」な立場を積極的に受け入れ、それを強みとして活かすことで、新たな価値を生み出すことができるのではないか。

もちろん、それは決して容易なことではありませんが、チャレンジする価値は十分にあるんだろうなあと僕は感じました。

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積極的に、あちら側とこちら側の境界線上に立つことを選択し、どちらからも異物だとみなされながらも、異なる世界をつなぐ架け橋になろうとすることは、間違いなく新たな道を切り開くことにつながるはず。

それは結果として、自分自身の唯一無二の居場所を作り出すことにもなるはずなんですよね、きっと。

そして、何より、そのような挑戦を応援してくれる人たちも、必ず現れるはずです。

今回のPodcast内でのお話が、坂ノ途中さんのファンの方から「あの話を、もう一度聞きたい」とリクエストを受けるほどに人気があったということは、多くの人が小野さんのこのスタンスに勇気づけられていて、実際に共感していることの証だと思います。

僕も今回初めて小野さんの口から直接このお話を聞かせてもらいましたが、自らが道に迷ったときなどは今後、事あるごとに思い出す話となりそうです。

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「コウモリ」のようなスタンスで、自らの置かれている境遇を受け入れ、その中でできることを最大限発揮しようとしているひとは本当に強いなあと思います。心から尊敬する。

少なくとも、コウモリ的に生きている人や、片子のような立場の人に対して、石を投げることだけは絶対にせずに、できる限り支援や応援をしていきたいなと思います。

このWasei Salonが、そのような立場に置かれているひとたちにとって、またそのような立場になろうと模索しているひとたちにとって、心休まる居場所になっていったら本当に嬉しい。

そして、自分自身もそのような存在として、率先して「あわい」や境界線に立ち生きていきたいなあと思います。

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これからの時代、多様性が広がって、さらなる分断が広がることは必定で、各方面で境界線が引かれていることは間違いない。

そうれれば、間違いなく異なる世界をつなぐ「架け橋」の役割は、より一層重要になってくるはずです。それは個人のレベルでも、組織のレベルでもまったく同じこと。

自分の中にある「コウモリ性」や「片子性」みたいなものを恐れるのではなく、それを積極的に受け入れて、自らの強みに変えていく。

そうすることで、より豊かで創造的な社会を作り出していくことができるんだろうなあと信じています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。