8月に入ると、なるべく戦争関連の書籍や、コンテンツに積極的に触れようと毎年強く意識をしています。

普段はあまり戦争のことは考えていなくとも、終戦記念日までの約2週間だけは、何かしらに能動的に触れておきたい。

今年はオリンピックの開催年でもあるため、NHKもオリンピックの放送ばかりで戦争関連のコンテンツは少なめなので、なおさら意識して触れようと思っています。

で、そうやって意識して触れていると、結局いつも同じような問いにたどり着いてしまう。

それが「日本人にとっての天皇制とは何か」ということです。

この不思議な制度があるから、太平洋戦争のようなものも起きたことは間違いないし、にも関わらず、毎回その実態が全然つかめないのが天皇制の特殊性だよなあと思うわけです。

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この僕の長年の問いに対して、見事にある種の「答え」と思えるような見立てをを与えてくれた本がありました。

それが、憲法学者・木村草太さんと社会学者・大澤真幸さんの対談本「むずかしい天皇制」という本です。

タイトルには「むずかしい」とはありつつも、語り口自体はとても読みやすくて、個人的にはいままで読んできた天皇制にまつわる本の中でいちばん読みやすかったですし、自らの問いに答えてくれているなと感じました。

特に社会学や、憲法学の側面から天皇制に対して興味があるひとには、ぜひともおすすめしたい1冊です。



で、まず本書の結論を先出ししておくと、空気を読んで行動する日本人の「メタ空気」をつくりだしているもの、それが天皇制であるという話が、本書の結論です。

今日はこの本を読みながら学んだこと、個人的に考えたことをこのブログの中にも書き残しておきたいなあと思います。

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さて、この本の帯には「なぜ他のものは捨てられても、天皇制だけは捨てられないのか?」と書かれています。

天皇制というのは、日本人である「われわれ」は何者なのか、を理解する上での鍵なのだ、と。

つまり、天皇制を見ることは結局、日本人と日本社会の歴史的な全体を見ることに直結していると語られています。

じゃあ、「いかに天皇制が大事なのか、各時代の天皇が尊ばれてきたのか」という視点に話が向かいそうな気がするのですが、実際にはそうじゃなくて、むしろ完全に蔑ろにされてきたのにも関わらず、未だに天皇制が残っているのはなぜか、という視点から本書の話は始まっていきます。

でも、実際にそうですよね。たぶん、これを読んでいる方々も自分には天皇制なんて一切関係ないと思っているはず。

天皇に対して良くも悪くも、自らの私見や興味関心なんて、一切持ち合わせていないというひとが大半だと思います。

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日本人の大半の態度がそのような態度なのに、なぜか未だに残り続けている天皇制。

でもむしろ、そのような態度が大半だからこそ、残り続けているものでもあるわけです。

以下はこの問いに関する本書からの引用部分となります。

日本の歴史の多くの期間──「ほとんどの期間」と言っても過言にはならないくらい多くの期間──、日本人の大半は、天皇や朝廷に無関心である。日本人は強い尊敬の念をもって天皇に帰依してきた……とはとうてい言いがたい。ときには、「バカにしているのではあるまいか」と思いたくなるほど、天皇をないがしろにしたときもある。それなのに、天皇(制)は、決して完全に否定されることなく、今日まで長続きしている。どうしてだろうか。


たとえば、平安時代後期から鎌倉時代にかけては、実質的な政治権力は武家にあり、天皇の影響力は限定的だったわけです。そして、江戸時代においても、天皇は政治的には無力化されていました。

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「尊王攘夷」という掛け声ではじまった明治維新のときでさえもそうです。あのタイミングにおいて、誰が天皇を信仰したのかを考えてみると、実は一人もいないのだ、と。

特に錦の御旗を掲げ、天皇の名のもとに闘った倒幕派のリーダーたちは、天皇を神として崇めてもいないし、天皇を尊敬してもいなかったのだと、本書には書かれてありました。

孝明天皇が適切な政治判断ができないこと自体は最初からわかっていたけれど、天皇を担ぎ出して、新政府を樹立するための方便として、既存の天皇制を利用したわけですよね。

このような話っていうのは、歴史を学んでいるときはサラッと受け入れてしまいがちだけれども、でもよくよく立ち止まって考えてみると、西洋と比較した場合においても本当に不思議極まりない話だなあと思います。

本書のなかで、大澤さんは以下のように書いていました。

天皇は、ほとんどカリスマらしい能力を発揮しない。発揮しないなら、普通はカリスマが衰えていくはずなんだけれども、発揮しないがゆえに失敗もなく、カリスマ性が維持されている。極論すれば、いかなるカリスマ的な力も発揮しないがゆえに、カリスマ性がある、という逆説ですね。天皇は積極的に意思を表現しない限りで機能するのですね。天皇の意思は、周囲のみんな忖度することになっている。


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さて、ここまで読んできてくれた方々には、ほら、やっぱり自分には関係ない話だと思っているはず。

何か神々しい力があるわけでもないのだから、より一層無視してしまっても構わないものだと思ってしまったかもしれません。

でも、たとえば、働くという文脈ひとつとっても、自分たちに間接的、いや割と直接的に関係している部分があるもの、それが天皇制。

たとえば、本書の中で語られていたのは「正社員と非正社員」という身分についてです。

詳しく説明し始めると長くなるので割愛しますが、これももともとは「天皇から任命されたか否か」その中央の仕組みが結果的に、明治以降の企業の中においても真似されて、採用されたことがきっかけで、未だにこのような身分性が現代でも存続しているのだと。

本書の中では「その天皇制の空気やオーラのようなものが、日本の末端にまで行き届いている。だから本来、無関係なひとなんていないのだ」というような趣旨の話が語られていました。

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で、本書の最終的な結論としては、冒頭でも書いたように、天皇制というのは「日本には空気で動いているという『メタ空気』をつくっているんだ」ということが語られていました。

客観的に見れば、そのメタ空気のおかげで、戦後日本社会の「民主主義」はやってこられたのだと。

以下は、再び本書からの引用です。

とにかく日本人は空気が存在していることに、絶対の確信を持っている。少なくとも、誰もがそのような確信を持っている、という想定で皆が行動する。「空気が読めない」と批判されたりするのも、空気が存在しているからです。その空気の、最後の最後の砦が天皇なんですよ。天皇がいる以上、日本に空気は存在するんです。そして、天皇がいる以上、かならずその空気が見出されるのです。


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これは、なんだかものすごくふわっとした結論なんだけれども、でも繰り返しますが、だからこそ機能しているのが、天皇制というものなんですよね。

現代人は、誰も真剣に天皇制のことなんて考えていない。そして、過去から現在ににおいてもずっとそうで、きっと未来に向かってもそうなっていく。

とはいえ、政治上の対立や経済上の対立においても、何か意見対立が深まった後、ほどほどの落とし所をみつけたあとは、それを天皇が追認さえすれば、日本では、すべてが丸くおさまるようになっている。すくなくともそういう「空気」がそこに完成する。

でもそうやって「アイロニカルな没入」によって都合よく天皇制を利用していると、昭和天皇のタイミングなんかがまさにそうだったように、「空気」自体がおかしな方向に向かってしまい、あれよあれよと戦争の道にまっしぐらに進んでしまったりもするわけです。

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そして、令和以降、いま少しずつ天皇の象徴としての行為というものが一体何なのか、その国民のコンセンサスが取れなくなってきている。

逆に言えば、現代でも天皇が象徴としての機能をかろうじて果たしてきたのは、昭和の大きな失敗としての「戦争」があったから。

天皇の象徴的行為が、その戦争における被害者たちの慰霊や鎮魂、弔いだったことは戦後においても天皇制が続いてきたその一番の理由だったわけです。

平成の天皇が象徴としてその役割を引きついで、その慰霊の役割を担っていたからこそ、象徴として、その空気として存在できていたことも、紛れもない事実だと思います。

それがある種、戦後日本の共通した「空気」でもあったということです。

現在の令和の天皇制に、その舵取りが非常にむずかしいところ。つまりこれは、日本の空気それ自体が壊れていくかもしれない兆しでもあるわけですよね。

これがなくなったときに、つまり「メタ空気」を作り出すために存在していたものが、ちゃんと機能しなくなったとき、それ以降の日本全土における「空気それ自体」がうまく機能しなくなる可能性がある。

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天皇制が機能しなくなったあとに、この日本という国が存続し続けるかどうかは誰にもわからないしそれは決して定かでもないけれど、でも少なくとも、これまでの日本という国、そして日本人という空気を読み合う民族は、これまで通り存続することは、きっとむずかしくなってくる。

そうなると、果たして日本はどうなるのか。

日本人がいちばん興味関心を示さない天皇制に対して、もっともっとその根本的な役割について考えていきたいなあと思いました。

この制度が、良くも悪くも、長く長くこの日本社会を根底から支えてきたことはまず間違いないわけですから。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。