「人生はどうすれば楽しくなるのか?」

多くのひとが一度は考えたことがある悩みだと思います。

この点、世の中の支配的な考え方と、自己の価値観が一致していると、スピード感やスリルのような迫力が生まれてきて、人生はとても楽しくなります。

それゆえにひとは、より権力に近いほうへと近づきたがるし、そんな仕事に就きたくなるのだと思います。

でも、その結果として自分で考えられなくなってしまう。

主流の意見に対して、疑う余地を抱かないほうが、自分にとって都合の良い場面がドンドン増えてくるため、自らの意思で意図的に考えることを放棄し始めてしまうと言ったほうがいいのかもしれません。

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じゃあ、何でもかんでも裏を返せばいいのかといえば、きっとそれも違う。

今度は反権力的な思想にどっぷりと浸り、社会の裏側ばかりを期待してしまい、陰謀論や新興宗教のようなものに心酔してしまう。

反権力に期待する人々、ある種のルサンチマンを抱えている人たちにとって、耳触りの良い言葉やロジックを先回りして用意してくれているので、そこにハマってしまうのも仕方のないことなのでしょう。

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こうやって考えてくると、やはり自分の中で「多面性」を担保し続けるしかない。

言い換えれば、ひとつの価値観だけに染まらずに、常に複数の「他者の視点」に立って、物事を眺め続ける必要がある。

ただ、このスタンスは世間ではあまりに人気がなく、なかなか受け入れる人は多くはないです。

なぜなら、一番歩みが遅くなってしまうから。

多大な労力を強いられるにも関わらず、権力側や反権力側の思想が与えてくれるようなカタルシスや爽快感ようなものは、一切感じられない。

むしろ、複数の他者の視点に立てば立つほど、「えっ、じゃあどうすればいいの…?」と、わけがわからなくなってしまう。

端的に言えば、人生から勢いが消えて、人生がとてもつまらないものになります。

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しかし、だからこそ、その多面性を失わないように耐え続けることが、生きるうえで何よりも重要なことだと僕は思うのです。

「考える」というは作業は、そのせめぎ合いに対してずっと苦しみ続ける態度を指すと言っても過言ではないように感じる。

「そんな苦しさから脱したい!一刻もはやく社会の真理に到達したい…!」

そうやって、自分を楽にしてくれる思考にすがろうとしたとき、ひとは見事に流されるのでしょう。

一瞬の栄華を極めても、また泡のように消えていく。

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では、この多面性を担保し続けるためには、どうすればいいのでしょうか。

僕は、自分ひとりでは不可能だと思っています。

何かの本を読んだり、誰かのありがたいお話を聞けば、一瞬は実現可能であっても、必ずどこかのタイミングで挫折してしまう。

実際に他者の視点を実感できる「対話」の空間が存在しないと、継続し続けることは難しい。

それぞれの意見を表明し合いながら、「でもそれって、こんな見方もできるかも知れないよ」と相手の思考の中にある陰影に対して、光を照らし合う。

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最近のWasei Salonは、まさにそのような空間になりつつあるなあと感じています。

僕自身も、この「対話」の空間がなければ、もっともっと短絡的な思考に流されていたことは間違いありません。

常に答えのない問いに向き合おうとするメンバーみなさんの姿勢に励まされて、自分も考えることを決して放棄しないようにとらなんとかギリギリ継続できている実感がある。いつも本当に感謝しています。

昨夜のオンラインイベントを終えて、そんなことを考えました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけになったら嬉しいです。