「自分に厳しく、他人に優しくね。そうしないと、近寄りがたいひとだと思われてしまうよ。」

この世間でよく耳にする助言は、自分に厳しいひとだけの問題だと思っていました。

でも、実は自分に厳しいひとと対峙する側の問題でもあると思うのです。

今日は、そんなお話を少しだけ。

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この点、自らに厳しいひとは、ものすごく真摯に自己と向き合い続けています。

そして常に自分自身に対し深く問い続けながら、この世界を観察している。

そんな人と対峙すると、その観察の目が、この私にも向けられているように感じ取ってしまう。

相手は、決して私のことを見定めているわけではないのに、相手が自分自身に向けているまなざしを勝手に察知して、この私にも同様のまなざしが向けられているのではないかと勝手に思い込んでしまう。

そして、相手の厳しい基準をこの私は満たすことができないと感じたときに、相手を過度に恐れたり、日和ったりしてしまうのでしょう。

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つまり、相手が自分自身に向けている強い矢印を、わたしにも向けられていると勘違いしてしまい、「あの人は、他人に対しても厳しいひと」だとレッテルを貼ってしまうのです。

客観的に見れば、完全なる被害妄想です。

でも大抵の場合、多くのひとは自分自身の弱さに対して、それぐらいうしろめたいものなのです。

僕自身も、何度もそんな達人たちを目の前にして、勝手にバツの悪さを感じて居心地が悪くなり、その場から逃げ出したことが何度もあります。

にもかかわらず、「なんであの人は、あんなにも無愛想なんだろう、なんか嫌な感じだな…」と逃げた先で相手を否定してしまっていた。

それは、自分の弱さを認めたくなかったからなのでしょう。自分の保身から来る完全なる曲解です。

本当は、相手に対して引け目を感じていただけで、それは自分自身が勝手に創り出していた被害妄想に過ぎなかったのです。

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ただ、そうなると、自分に厳しいひとが常に自分自身と真剣勝負し続けていることが、果たして本当に良いことなのかも疑問に思えてくる。

もちろん、相手が勝手に割り込んできて、相手が勝手に感じ取っているだけなのだから、それは「他者の課題」であると割り切ってしまうこともできるでしょう。

でも、それがこれまで多くの「分断」を生んできたようにも思うのです。

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この気づきと発見から、僕自身が反省できる点はふたつあるなと思いました。

一つは、自分に厳しいひとと対峙したとき、相手が自分自身に向けているまなざしを勝手に感じ取って、この私に向けられていると勘違いして、恐れたり、日和ったりしないこと。

そしてもう一つは、逆の立場になった時に、自分に向けているまなざしを、相手に向けていると感じ取られないように、最大限の注意を払うこと。

つまり、クソ真面目に生きすぎないこと。ユーモアや笑顔も大切に。それが他者の居場所をつくることや寛容さ、包容力にもつながっていくのだと思います。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。