先日、思想家・内田樹さんの新刊『夜明け前(が一番暗い)』を読み終えました。

この「あとがき」部分がとっても素晴らしくて、いま40歳以下のひとたちに対して「最高のエール」だと思ったので、ぜひともこのブログの中でもぜひとも紹介してみたいと思います。

本書に収められている「あとがき」と同様の文章は、内田樹さんのブログにもそのまま公開されているので、全文を読みたい方は、ぜひ合わせてご覧になってみてください。

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さて、少し長くなってしまいますが、非常に重要な箇所だと感じるので本書から長めに引用してみたいと思います。

日本の現状がかなり悲惨なものであることは間違いありません。国際社会におけるプレゼンスも、経済力も、文化的発信力も、あきらかに低下しつつある。これはどんな指標を見ても明らかです。

でも、これがシステムの全面的な壊死なのかというと、そうでもないような気がします。「日の当たる場所」はかなり悲惨な状況ですけれども、「日の当たらない場所」ではもう新しい活動が始まっているように思えるからです。すでに歴史は「次のステージ」に入っている。でも、「日の当たる場所」にいる人たち(昔風に言うと「エスタブリッシュメント」ですね)は、その潮目の変化にまだ気づいていない。

それを感じたのは少し前に、知人の結婚披露宴に呼ばれた時のことです。知人の結婚相手はパン作りの若い女性でした。その関係で、披露宴で僕のすわったテーブルは新婦の「パンの師匠」と、同門の若いパン職人たちでした。その人たちの話がとても面白かった。みなさん同じ師匠について修業したあとに海外で修業を重ねてから、日本に戻って各地でパン屋を開業している方々です。細かい技術的なことは僕にはわかりませんけれど、彼らがあっさりと「日本のパンは世界一ですから」と言い切ったときに、はっと胸を衝かれる思いがしました。「いま、フランスのパン職人たちが必死に工夫しているのは、僕らがすでに10年前にやったことです。日本のパンは10年のアドバンテージがある。」そう言ってにっこり笑いました。


この実感知の部分を読んで、なんだかものすごく共感できるなあと僕は感じました。

特にパン屋さんのお話の部分で、内田樹さんがハッとさせられた感覚は、僕にもめちゃくちゃ身に覚えのある感覚です。

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具体的には、発酵デザイナーの小倉ヒラクさんとお会いすると、いつもそれを感じさせてくれるんですよね。

ヒラクさんが、海外の発酵業界からも引っ張りだこであることが示すように、日本の発酵文化は間違いなく世界でトップレベルなのだろうなあと感じさせてくれます。

そして、じゃあ、なぜ日本の発酵文化は世界トップレベルを走ることができているのか。

それは「日の当たる場所」にいる人たちからすると、「金になる」話ではないからなのだと思います。

まったく同様のことは何度もご紹介してきた「石見銀山・大森町」にも言えるかと思います。

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不思議なことに、BtoBのビジネスになりえないものは、どれだけ技術レベルが高くても放って置かれるのが、日本の政治やビジネスのおもしろくもあり、興味深いところでもある。

でも、だからこそ、そこに世界のトップレベルの技術が自然発生的に集中してくるのでしょうね。

小さなつくり手たちひとりひとりが、国家や大企業のビジネスとは関係なく、お互いにノウハウを共有し合いながら切磋琢磨して、淡々と創意工夫を凝らすと、すぐにトップレベルのものをつくれてしまう。

それが日本人という民族のお家芸みたいなもの。決してこれは日本という国家の力ではありません。

個人レベルにおいて、その「手仕事」のような小さな技術のレベルにおいては、すぐに世界一を取れてしまう凄みが、日本人にはあるのだと思います。

それぐらい勤勉なひとたちが、日本人には多いということなのでしょう。

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さて、内田さんは本書のあとがきの中で、以下のように続けます。

多くの人が強く願うことは実現する。これは長く生きてきて僕が確信を持って言えることの一つです。問題は「多く」と「強く」という副詞のレベルにあります。原理の問題ではなくて程度の問題なんです。

かつて敗戦の瓦礫から立ち上がったように、また手持ちのわずかなリソースを使い回して、もう一度「僕らがやってること、とりあえず世界の最先端ですから」というような台詞がさらっと口から出るような時代に出会いたいと僕は思っています。

そして、それは決してそれほど難しいことじゃない。
もちろんAIとか創薬とか宇宙開発とか、そういう「やたら金がかかり、当たるとどかんと金が儲かる」領域では無理でしょうけれども、食文化とかエンターテインメントとか芸術とか学術のような、日本に十分な蓄積があり、かつ「新しいこと」を始めるのに、多額の初期投資とか、「えらい人たちへの根回し」とかが要らない分野でしたら、すでにそういう言葉が口元に出かかっているという人たちはいるはずです。


これは僕がいま、熱中しているNFTの分野においても、まったくそうだと思います。

海外の事例をくまなくチェックしているわけではないので、どこまでが世界基準なのかは正直わからない部分も多いのですが、これほどまで、NFTの本質とは何かを考えながら、そこから生まれてくるまったく新しいコミュニティをつくり出そうとしているのは、世界広しと言えど、日本だけなんじゃないでしょうか。

つまり、僕らがいま熱中している国内のNFTプロジェクトの一連の集合体は、それだけで世界一になっている可能性は非常に高い。

僕は結構本気で、そう信じています。

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そんなことをフワフワと考えている中、昨夜『映像の世紀バタフライエフェクト 「零戦    その後の敗者の戦い」』を観たんですよね。

そうしたら本当にビックリしました。まったく同様のことが描かれていたんです。

いま「クールジャパン」などの文脈で、日本の技術者やクリエイターたちがうまく国家戦略において活用されてしまっていますが、それは戦時中の当時、零戦をつくっていた堀越二郎たちもまったく同じような状況下にあったのだと。

そして、1945年の敗戦がそうだったように、まもなく現代においてもこの日本という国家が自滅していく日がやって来ることは間違いないでしょう。

その引き金を引くことになるのが、大地震のような自然災害になるのか、ハイパーインフレのような経済危機になるのか、またコロナのような感染症がきっかけになるのかは誰にもわかりません。

でも、様々な角度からの状況分析を見る限り、今の日本がどう考えても薄氷の上を渡るような状態であることはまず間違いない。

何か一つでも、その最初のドミノが倒れた瞬間には、バタバタと崩れ去っていくことは間違いないでしょう。

少なくともじわじわと訪れる人口減少が最後の引き金となって、数十年後にデットラインが存在していることは間違いない。

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そのときに、きっとすべてが崩れ去った日本を若い人たちがもう一度復興する日が、きっとやってくる。

それを牽引するのは、そのときに「世界一の何か」を実現している若者たちだと僕は思います。

そのときのために、今からド真剣に遊び尽くしておくこと。

ゲームでもマンガでもアニメでも、本当になんでもいい。

政治やビジネスとは全く関係のないところで、世界一のジャンルを追い求めて、一生懸命に熱中し、それらをしっかりと立ち上げておくこと。

そうすれば、それがどのように役に立つのかは今はまったくわからなくても、必ず役立つようになはずなんです。

なぜなら、世界中のひとたちから、そのジャンルに対して敬意や尊敬の念を払われるようになるはずだから。

尊敬や敬意は、決してお金では買えない。そして、その方法を学びたいというひとは世界中にいるはずです。

そうすれば、国際関係を、また有効的に構築していくことは間違いなくできるはずです。

それは前述した『映像の世紀』を観ると、本当によく分かる。

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自分が一体何の分野で、どんな形で、世界一の仕事に携わることができるのかを考えておくことは、今40歳以下の若い人たちにはとっても重要なことだと思います。

僕は引き続き、NFTとコミュニティの世界において、このあたりの可能性を淡々と探求していきたいなあと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。