受験や就活なんかがわかりやすいのですが、自分たちにとって都合の良い優秀なひとと巡り合いたいと願うとき、とにかく応募人数のほうを増やして、その中から選抜するほうが良い人材が集まると思いがち。

そうやって、選考をする側にいるひとは、より優秀な個体を求めて、とにかくその母数のほうを躍起になって増やそうとしてしまうんですよね。

でも、そうすることで倍率が高まれば高まるほど、それだけみんなが猫を被るようにもなってしまう。

その理由は説明するまでもなく、自らが倍率高い空間のなかで、その競争を勝ち抜いて他者になんとか選ばれようとしたときのことを、思い出してみてもらえればすぐにわかるはずです。

倍率の高い空間に入るための願書や面接のような機会において、いつもと変わらずに自然体であったというひとは、本当にサイコパスの一握りの人間だけだと思います。

それは以前、Voicyの「定義や間口を広げて、ハードルを下げすぎることは本当に文化にとって良いことなのか?」という配信回の中でも似たようなお話をしたとおりです。

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じゃあ、本当に相性が良いひとと、自然体であるときに出会える場をつくるためには、一体どうすればいいのでしょうか。

ここが今日のメインの問いです。

僕が思うのは、本当に求めている人だけが、自然とフラッと訪れてくれるような場を形成することが理想的だと思います。

だからこそ、常にそんな人たちに対して、ちゃんと届くメッセージが何かをド真剣に考え続け、発信し続けることが本当に大切なんだろうなあと。

いっぽうで、その他大勢の求めていないひとにとっては、無色透明に感じるぐらいがちょうどいい。

相性が悪い人たちからは「あんなのの一体何がいいの?」って言われるぐらいが、きっと落としどころとしては、正しいんだと思います。

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でも、ここで重要なことは、何一つとして「真実は隠さない」ことだと思います。

この点、一見さんお断りのような空間というのは、いわゆる隠れた場所に、その空間を作ろうとしてしまいがちです。

喩えるなら、細い路地裏の、隠し扉の先にあるような知る人ぞ知る隠れ家のように設計したがる。

でも、それはそれで本当にたどり着いて欲しいひとさえも排除することになりかねない。

何も隠されてはいない、大通り沿いに面していて、地図が苦手なひとでも簡単にたどり着けるような場所のほうがいい。

でも、興味がないひとや招かれざる客は、お店の前を素通りして、その中だけでは価値観をともにするひとたちが本当に楽しい空間を繰り広げられていることが、本来は理想的なのでしょう。

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この点、たとえば歴史上の哲学者や思想家、宗教家たちの発言は何も隠されてはいません。

ただし、それは見ようとするひとにしか、その内容が伝わらないようにできている。興味がないひとには、本当に何の価値もないメッセージになっている。

でも、観るひとが観れば、すぐにわかるようになっているんですよね。

きっとそうすることで、無駄なハレーションや炎上が起きないようにもなっているんでしょうね。

結構危ういことを語っている場合も多いですから。特に宗教なんかは、一見すると強烈な差別が含んでいると、誤解できてしまう話も結構たくさん書かれていたりする。

だから、僕らにとって本当に大事なことは、それを観ることができる人間になることも、同時にとても大事だということなのでしょうね。

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この点、「贈与」というキーワードは、非常に優れているキーワードだなあと思います。

たとえば、「あなたが得をする」というキーワードは、いくらでもワラワラとひとが集まってきます。

だから、マイナンバーカードや初期のころのペイペイなんかは、これでもかっていうぐらい「お得」を付与して、日本国中にばらまかれたわけですよね。

でも「贈与」というキーワードは、それだけではある意味ではひとを遠ざける効果を持っています。

なぜなら、多くの人は、自分が損をする行為を忌み嫌うはずだから。

でも本当にその意味や価値を理解しているひとたちにとっては、いかにそれが重要な行為なのか、自らが得をすることよりも大事にするべきことだとちゃんとわかっている。

だから、贈与というキーワードが掲げられた空間には、集まるべきひとたちだけが、ちゃんと自然に集まってくる。

それは以前、「自らが得をする空間よりも、贈与したくなる空間に身を置くことの重要性」というVoicyの配信回の中でもお話した通りです。

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この点、身近な例になってしまい恐縮なのですが、このWasei Salonはアバウトページには、5つの価値観というものを掲げてあります。

具体的には、「誠実、簡素、健康、自然、尊重」の5つです。

これは、民藝的なものの基準からアイディアをいただいて、当時作成しました。

以前、「灯台もと暮らし」の中でも、インタビューもさせてもらったことがある明治大学の・鞍田先生が、「民藝の基準」をとある雑誌の中で提唱されていて、非常に美しい基準だなあと思い、これをひとにも当てはめられないかと思い、完成したのがこの5つの基準になります。

内容をより詳しく知りたい方は、ぜひアバウトページを読んでみてください。

ちなみに、鞍田先生が提唱されている民藝の基準は「誠実・簡素・健康・自然・無心」の5つになります。

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で、ありがたいことに、この5つの基準のおかげで、Wasei Salonに入ってきてくださる方々とは、本当に不一致が少ないです。

特に選抜形式にしているわけではないのにも関わらず、です。

ただ、多くの会社や学校というのは、より優秀な個体を求めて、もっともっとキャッチーで目立つ基準を掲げてしまうんですよね。

そのほうが「より理想に近いひとと出会えるかも」とか「よりお金が儲かるかも」とか、下心がムクムクとたちあらわれてくるからだと思います。

でも、それが本当にやっちゃいけないんだろうなあと。

それは悪魔との取引みたいなもので、自分で自分自身の足に蔦が絡まるような方向に向かってしまいます。

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「人を遠ざけることも編集である」というお話は以前も何度かこのブログに書いてきました。

これは決して「排除の論理」ではないはずです。一見するとなんだか似ているけれど、それらは完全に似て非なるもの。

たとえば、わかりやすい例だと、気難しいマスターが経営しているようなという純喫茶のような場所にはよく「◯◯はお断り、◯◯禁止」っていう張り紙はよく見かけますよね。

お客さんとの不一致を避けるために、わざわざ掲げているのだと思うのですが、そうやって遠ざけるのは、あまり得策ではないなあと個人的には思っています。

なぜなら、そうやって断言されると、お客さんが萎縮してしまうから。

確かに、書かれた通りにみんなが振る舞ってくれて、理想的な環境は外見的には完成するのだけれど、お客さんの心は決して休まらない。

いつか自分も虎の尾を踏んでしまわないかどかといつもビクビクしながら、そうやって私自身も排除されるのかもしれないと怯えてしまうのが、人情です。

つまり、中国の文化大革命のようなことが起きてしまうんですよね。お互いがお互いに疑心暗鬼になってしまって、自然体で振る舞うことができなくなるんです。

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そうではなくて、自然とフラッと気軽に立ち寄ることができて、自然とお店側に求められている振る舞いができてしまう設計になっているかどうかが、本当に大事だなあと。

それが本当の居心地のよい空間だと思います。

逆にいえば、張り紙などで「禁止事項」をデカデカと提示しなければいけない状況というのは、場の運営者の怠慢だと僕は思っています。

何か空間設計や、案内の仕方が間違っている証でもある。

そうではなく、自然とこちら側が求めているように振る舞ってもらえるようにおもてなしをすること。価値観や理念を明確に伝えること。

そして、入ってきたひとには、何を期待していて、どのように振る舞って欲しいと思うのか、それを相手側が自然と察知できるように促されている空間が、本当に優れた空間だなあと思います。

それは以前、「神社仏閣や教会のなかでカラオケボックスのようにはしゃぐひとはいない」という例でお伝えしたとおりです。
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禁止事項のような振る舞いを好むようなひとであっても、ちゃんと説明して、相手を信頼し親切に接すれば、その場の中ではちゃんとそのように振る舞ってくれる。

この話は、これからの時代に求められる「精神面のドレスコード」のようなものだと思います。

逆に言えば、ちゃんとそのドレスコードを精神面において整えられるかどうか、コミュニティ運営側にはソレがもとめられていることだと思います。

これからの時代において、めちゃくちゃ重要なこと。

デカデカと「Tシャツ・短パン禁止」と書くのではなく、自然ときれいめな格好で行きたくなるような場を形成しておくこと。童話「北風と太陽」みたいな話ですね。

口で言うのは簡単ですが、実際に空間に落とし込むのは非常に難しい話です。でも、だからこそ挑戦しがいのあることだとも思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。