NFTの議論の中で、「フリーミントや格安ミントで手に入れたものを一度売払い、それを再び買い戻した場合、そのホルダーは以前と同様の主体と言えるのか?」という議論があります。

一般的には、同じ主体であるとみなされるというのが通説ではあると思うのですが、この話を見聞きする度に、なんだか僕はモヤッとさせられます。

大前提として、この行動自体を否定したいわけではありません。

そこは決して誤解しないでいただきたい。

買い戻す行為は、ものすごく尊い行為だと僕は思います。健気だなあと素直に感じる。

そこまでして、やっぱり買い戻すことにした行為にも何かしらのメッセージが込められているとも感じています。

ただ、ここのモヤッとする感覚は、一体どこからやって来て、何がそう感じさせるのかは、一度そのこととは切り離して考えておくことがものすごく重要だなあと思っています。

なので、今日はそんなお話です。

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大きなヒントを与えてくれたのは、「贈与」について考える中で、この本だけは絶対に避けては通れないと思っている『世界は贈与でできている』という本です。

「贈与」の視点から、ものすごくわかりやすいお話が、この本の中に書かれてありました。

著者の近内さんは「そもそも、どうして私達はお互いにプレゼントを贈り合うのでしょう?」と疑問を提示します。

「それは、誰かからプレゼントそして手渡された瞬間に『モノ』が、モノでなくなるからです」と語ります。

そして、親しい人からもらった贈り物の腕時計を具体例にして、もしソレをなくしてしまって、全く同じ型の時計をこっそり購入し、相手にそのことを黙ったままやり過ごすとしたら、僕らの多くは、その後ろめたさに耐えられないであろうと語ります。

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その理由について、以下少し引用してみたいと思います。 

プレゼントされた時計も、無くした後に自分で購入した時計も、モノとしては等価なはずなのに、僕らはどうしてもそうは思うことができません。そこには、モノとしての価値、つまり商品としての価値からはみ出す何かがあると無意識に感じるのです。

商品価値、市場価値には回収できない「余剰」を帯びると言ってもいいかもしれません。そしてその余剰が、単なる商品だったその腕時計に唯一無二性、言い換えれば固有名を与えることになるのです。     
 
 重要なのは、「その余剰分を自分自身では買うことができない」という点です。なぜなら、その余剰は誰かから贈られた瞬間に初めてこの世界に立ち現れるものだからです。


「その余剰分を自分自身では買うことができない」というのは、本当に大事なポイントだと思います。

そして、商品の「使用価値」「市場価値」、そして「余剰価値」の3つの視点が存在するということは、このあとでものすごく大事な視点となっていきますので、ぜひここでそれぞれを把握しておいて欲しいです。

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さて、本書では、さらに以下のように続きます。

モノは、誰かから贈られた瞬間に、この世界にたった一つしかない特別な存在へと変貌します。贈与とは、モノを「モノではないもの」へと変換させる創造的行為に他ならないのです。     

だから僕らは、 他者から贈与されることでしか、 本当に大切なものを手にすることができない のです。

 「自分へのご褒美」という言葉の空虚さの理由がここにあります。ご褒美は本来、誰かから与えられるものです。だからそれは買うことのできないもの、すなわち贈与なのです。


NFT(ノンファンジブルトークン)が、FT(ファンジブルトークン)と違う点というのは、まさにここにある。

逆に言えば、「他者から贈与されることでしか、 本当に大切なものを手にすることができない」からこそ、NFTという仕組みには価値があるんですよね。

代替可能なファンジブルトークンでは、ダメなんです。

もっとわかりやすく言えば、たとえば上京時に親から手渡された1万円札があるとします。

それを大事にお守りのように持っているという光景は、よく見かけますよね。

それは、他の1万円ではなく、この1万円でなければ意味がない。

それを使ってしまって、そのあとに給料で同様の1万円札が戻ってきても、それは決して同じ1万円札ではない。

僕らが代替可能な紙幣というファンジブルトークンに対しても、そのように感じるのは、それが質量のある物質だからです。

やっぱりあの紙と、この紙は同じものではない。

それと似たようなことを、デジタル上でも唯一定義できるのは、NFTという「共同幻想」だけなんです。

ここがめちゃくちゃ重要なポイントですし、NFTの非常に画期的な点だなと思います。

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この点、僕らは「余剰価値」だけを、いま完全に切り離して考えてしまっているフシがある。

切り離しているからこそ、買い戻した場合であっても、そこに同様の価値が存在しているんだと思い込んでしまうんですよね。

でも、本来「贈与」における議論がそうであるように、人々のつながりというのは、この「余剰価値」によってもたらされているものであるはずです。

言い換えると、人と人とのコミュニケーション(贈与や交換)というのは、本来この余剰価値を生み出すために行われていたとも言える。

だとすれば、冒頭の問いである「フリーミントや格安ミントで得られたNFTを、一度売却して買い戻す」という行為はたぶん、本当の意味では「贈与」されたものを引き続き保有していたことにはあたらないのです。

そこには、商品の使用価値や市場価値のすべてが同様に存在していたとしても、「余剰価値」だけがもう跡形もなく完全に消え去っているのだから。

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きっと、過去数十年間のあいだ、僕らはこの「余剰価値」をひたすらに見落としてきたんだろうなあと思うのです。

それは、つまるところ「人情」を見落としてきたとも言い換えることもできるのかもしれません。

でも本来の人間の生きる意味や生きる価値、そんな様々な尊い価値というのは、本当はここにすべて込められていた。

まさに、サン・テグジュペリの『星の王子さま』や、ミヒャエル・エンデの『モモ』の中で必死に描かれていた世界観でもあるかと思います。

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この点に関連して、非常に興味深い言説だなあと思って今も強く印象に残っているのが、哲学者・東浩紀さんの言葉で「僕らは、本当は『体験』を求めているのに、今は『情報』だけが来ている」という話です。

これは、今とっても大事な指摘だと思います。

たとえば「音楽を楽しむ」という行為は、本来「楽曲」を楽しむことだけではなかったはずです。

友人とCDを貸し借りするときに生まれるようなコミュニケーションや、友人と一緒にフェスに行くことなども含めて「音楽を楽しむ」という行為だったはず。

でも、それを貸し借りしたり、わざわざ遠くまで聴きに行くということは「おまえらが喉から手が出るほど欲しがっているものは、この楽曲そのものだろう」とGAFAのような企業に詰められるわけです。

「だとしたら、おまえらの欲しい物がより安価で、より便利に手に入れることができるのだから、こっちのほうがおまえらにとっては都合がいいだろう?」という口車に乗せられて、まんまとサブスクに契約させられてしまう。

言われてみれば、確かにその通りかもしれないけれど、なんだかキツネに化かされたような気分になりますよね。

そして、今日の話からいえば、資本の論理から言えば単純にそうであるだけであって、実際のコミュニケーションの観点から言えば、まったくもって同様のものではないとわかってもらえるはずです。

むしろ、いちばん大事なところ、その「剰余価値」を抜かれた状態でビックテックから手渡されてしまっているわけです。

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同様の話で言えば、「旅の目的は、旅の目的地に到着することではない」という話にも非常によく似ている。

家を出た瞬間、いや旅の計画を立て始めたその瞬間から、旅はすでに始まっている。

でも、他者に旅の目的を説明するときには、ピラミッドを観に行ってみたいとか、伊勢神宮に行ってみたいとか、その目的地を指し示すことでしか、僕らは他者に旅をしたいという「欲望」を説明することしかできないんですよね、残念なことに。

でも、じゃあ、「どこでもドア」でその目的地に一発で行けてしまったら、それで満足できるかどうかと問われれば、それはもはや旅ではないことは、誰の目にも明らかです。

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このように、僕らは「価値」を、そのモノの「使用価値」や「経済価値」だと完全に誤解させられてしまっている。資本主義という「共同幻想」のせいで。

でも本当の価値は、それをやり取りしているときにだけ生まれるひとりひとりの中だけに立ちあらわれる「余剰価値」のほうだったのかもしれないということです。

つまり本当は「顔のある他者、人と人とのつながりこそが価値だった」ということに気づき始めているんですよね。

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それは、GAFAの台頭などにより、あまりにも世界がなめらかになりすぎて、その反動で「摩擦」が完全にこの世界から消え始めているからこそ、いま気づき始めているひとが逆に増えているのだとも言えそうです。

その世界との摩擦、他者との摩擦を取り戻すために「贈与」という手段を用いて、いま新たにそれを復興しようとしているのではないか。

そう考えると、資本の論理を究極に突き詰めて世界をなめらかにしてくれているビックテックには、ある意味では大事なことを僕らは教わっているのかも知れません。

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今、フリーミントの「贈与」というのは、その最初の起点になるために必死で頑張ってくれているということなのだと思います。

そして、そのためのコミュニティを僕らは必死で立ち上げようとしているのだと思います。

今年の年初に語った「誰から受け継いだものなのか」ということが、非常に重要になるという理由もきっとここにある。

今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても何かしらの参考となったら幸いです。