最近、ロビン・ダンバーが書いた『宗教の起源 - 私たちにはなぜ〈神〉が必要だったのか』を読み始めました。

各方面から「この本はすごくおもしろい!」とその評判を多く聞いていたので、やっと読み始めることができたわけですが、最初から本当に期待を裏切らないおもしろさです。

装丁やタイトルの雰囲気から、多少の読みにくさみたいなものも覚悟していたのですが、ものすごく読みやすくて、人文系の本というよりも、どちらかといえばビジネス書に近い読みやすさです。

まだ20%程度しか読み終えていないのですが、さっそくハッとさせられた話があったので、そんなお話をここでご紹介しつつ、自分の問いも合わせて書いてみたいなと。

結論から先に書くと、共同体において求められる「神の視点」の必然性みたいな話を書いてみたいなあと思っています。

きっとこれは人類が共同体を創造しようとしたときには、決して避けては通れない宿命みたいなもの。

言い換えれば、コミュニティを再設計するとは必然的に、共同体に必要不可欠な「神」を再設計するということでもあるんだろうなと思います。

ーーー

さて、まず大前提として、人々が共同体を構築するときに、必要なことは共同体のメンバー同士の信頼です。

他のメンバーを信頼するから、共にいられる。そうじゃなければ、その空間は万人の万人に対する闘争のような状態となってしまう。

じゃあ、その信頼をどうやって構築しているのかといえば、お互いの行動をつねに「監視」してるわけですよね。

監視という言葉は少し仰々しいかもしれないけれど、相手が信頼に足る相手なのかを、見定めるという意味では、広義の意味では「監視」だと思います。

そして、昨日の「贈与」の話の中でも書いたように、相手が自分に対してどれだけ贈与や支援をしてくれたのかを、事細かくはっきりと覚えているわけです。

そして、自分が他者を手助けする立場になったときは、そうやって互酬関係を築いてきた相手から積極的に選び取って、何かを与えたり支援したりするわけですよね。

ーーー

で、それがうまく回っていれば、メンバー同士はお互いに信頼し合って、をうまく共同体は機能していきそうです。

がしかし、それだけだとうまくいかないとロビン・ダンバーは言います。

なぜなら、そうやって常に監視をしようとしてみても、必ず死角みたいなものは生じてしまい、目に見えないところで、相手が何をしでかしているかは見当がつかないからだ、と。

そして、人間はこの制約、つまり目に見えないところで相手が何をしているかわからないという不安を克服するために「うわさ話」をするのだ、と。

そうすれば、自分の目が届かない場所や、立ち会っていない場所で、相手がいただけない行動をしている人間であったとしても、うわさ話として必ず自分の耳に届いてくるから。

そう考えると、いつまでたっても、うわさ話やゴシップに熱心になってしまうのは暇つぶしというよりも、「監視」であり、本能に近い行動なのかもしれませんね。

ーーー

で、ここまでの話は、非常によく理解できる話だと思うのですが、うわさ話がきちんと機能しても、やっぱりそれだけでは共同体はうまくいかないとロビン・ダンバーは言います。

じゃあ、それは一体なぜなのか。

そのような利己的に振る舞う人間、具体的には他者を騙してでも、自分の利益を共同体から悪意を持って搾取をしようとする人間が現れたときに共同体は崩壊してしまうからです。

以下は本書からの引用となります。

たとえフリーライダーを罰するのに費用がかかっても、喜んで払う者はかならずおり、事実それがフリーライドの抑止になる。だがこれにしても、「利他的な罰」の問題が浮かびあがる。もしひとりが利己的な者を罰するのに進んで金を払い、その者の行動が改善された場合、ほかの者は一銭も払わずしてその恩恵を受け、たったひとりで全額負担することになる。なぜそんなことをわざわざする必要があるのか。こうしてすぐさま出口のない悪循環にはまり、誰も協力したがらない状況に逆もどりする。


これは本当にそのとおりで、非常におもしろい指摘ですよね。

つまり、噂話でそのフリーライダーが見つかっても、その人間を罰するための費用や労力を捻出する人間はひとりもしくは少人数で、その他の人間が協力せずに、その治安に相乗りするだけなら、そんな役回りは、最終的には誰も引き受けなくなると。

言われてみれば、本当にその通り。

ーーー

そして、まさに今のNFTやトークンエコノミーの世界でも実際に起きていることそのものだなあと思います。

ここで語られるフリーライダーは、そのままペパハンだと思えば非常にわかりやすい。

今はペパハンによる被害や損失をファウンダーや中心に近い人物たちの「資産」を通して、買い支えているから成立しているようなものではあるけれども、そこにも限界がある。

そして、その限界が来た時に、コミュニティは自然と崩壊してしまう。誰も身銭を切ろうとは思わなくなっていくから、です。

ーーー

で、今日この話をご紹介してみようと思ったのはここからで、じゃあ人類はこのようなフリーライダーをするような人間をつくらないために、一体どうしてきたのか。

このときに「高みから道徳を説く神」の視点が必要になった、つまりこの視点をつくるために宗教が生まれたのではないか、それがロビン・ダンバーの仮説でした。

以下本書から再び引用してみたいと思います。

このジレンマを解決してくれそうなのが、「高みから道徳を説く神」を設定して、すべてお見通しの警官のような役目を果たしてもらうことだ。人間には見えないようなときでも神にはすべて見えているので、脅威としては効果ばつぐんだ。神がいなかった状態から切りかわって、高みから道徳を説く全知全能の神が人間の営みに関心を向け、道をはずれた者を罰するようになった理由も、これで説明できる。


こうやって説明してもらえると、共同体において「神の視点」が必然的に求められたことも本当に良く伝わってきますよね。

相手が自分の目の前にいないときであっても、それでも他者を信頼する方法として、人間を超越した、文字通り「神の視点」」をある種捏造をし、それを共同体の共同幻想として見立てることによって、初めて共同体が成立する。

それをもっと突き詰めて、本当に完全なる「監視」をしてしまえ!と振り切った独裁国家のフィクションがジョージ・オーウェルの『1984年』の世界観です。

また、近年話題のテクノ・リバタリアンの思想も、基本的にはこの「神の視点」をブロックチェーンやAIによって新たに作り出そうとしている。

つまり、共同体やコミュニティには宗教における「神」の視点が必ず必要になるんだろうなあと。お互いを相互にフラットに信用するために、です。

ーーー

今のNFTやトークンエコノミーの業界においては文化や規範意識のようなもので、なんとかここを切り抜けようとしているフェーズ感だけれども、

でもそれが人間によってつくられたものであり、いくらでも逸脱や背信行為が可能となれば、そこを突いてくるひとたちも同時にあとを絶たない。

どこかのタイミングできっと、この「神の視点」のようなものを創造することも必要となってくるんだろうなあと。

無宗教の日本人にもっとわかりやすく言えば、お天道さまが見てるの「お天道さま」の視点でもいい。

少なくとも、同列のレベルにある人間が注意喚起を行おうとすればするほど、むしろその死角を狙ってフリーライダーが増してくる構造というのは間違いなくあるんだろうなと感じます。

ーーー

ということは、これからこの神の視点をどのように築くかによって、今後のありとあらゆる共同体の方向性みたいなものも、きっと変わってくる。

具体的には、高みから道徳を説く神のような制約を、一体何によって見立てるのか、です。

本当に、テクノ・リバタリアンたちが想像するようなブロックチェーンとAIの組み合わせによるものにするのか。

それとも、国家もしくはそれに類するビックテックが、より監視的な方向へと向かい、『1984年』の亜種のような形で、フーコーの規律訓練型権力のようなものによって、その役割を担わせるのか。

それとも再び人間ひとりひとりの内面に訴えかけてくる、高みから道徳を説く神としての「宗教」のようなものが再度復活してくるのか。

ーーー

なんにせよ、共同体(コミュニティ)と神という存在は切っても切り話せない存在であるということを、この本を読み始めてすぐに理解することができました。

そして、新しい共同体を生み出すということは、新しい「神」を必ず必要とする。

つまり、コミュニティを成功させるということは、新たな神概念を作り出すことと、ほとんど同義でもあるのだと思います。

現代は、資本主義をベースにした「お金教」みたいなものが中心にあって、誰もが(万人に因果関係が想像しやすい短期の)経済合理性にしたがって行動するはずだという暗黙の了解があるからこそ、その「得」や「利益」を信頼の担保にして、お互いのコミュニケーションが成立しているところは間違いなくある。

でも、そのお金教でさえ、現代の若者を中心にドンドン離脱をし始めてきていることを考えると(それよりもっと価値があることがあると信じる姿勢)今後、新たなコミュニティにおける新たな「神の視点」を見出すことは必ず必要になってくる。

これは、とても興味深い観点だなあと思う。

引き続き、本書を読み進めながら、このあたりの問いについてしっかりと考えていきたいなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。