最近よく思うことのひとつに、一般的に多くの人々は、自ら何かを発信をするときは「答え」を提示するものだと思い込んでいる気がします。

でもそれは半分正解で、半分は間違っていると僕は思う。

確かに何かを発信するときには、明確な「答え」が求められている。でも、それゆえに現代は「答え」だらけの世の中になってしまっていると思うんですよね。

一方で僕は、それぞれの抱える「問い」のほうにこそ、そのひとらしさのようなものは宿っていると思っています。

何かわかりやすい答えを提示してバッサバッサと切り捨てていくのではなく、そのひとが一体どんな問いのまえで立ち尽くしているかのほうが、よっぽど価値のあることだと思うんです。

多くの人が通り過ぎてしまうようなものの前であっても、ひとり立ちすくんでいるほうが魅力的にうつる。

そういえば先日、批評家の若松英輔さんがこんなことをつぶやいていました。


これは本当にそうだなあと思います。

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じゃあ、ここで問題となってくるのは、なぜひとは自ら問うこと自体をやめてしまうのか、です。

このあたりは「説明責任」と「理解責任」という聞き慣れない言葉の話が関係してくるのだと思っています。

以前もご紹介したことのある養老孟司さんの本のなかでこの話が書かれていて「あー、本当にそのとおりだな」と思ったことがあったので、一見するとあまり関係なさそうな話だけれども、『生きるとはどういうことか』という本から再び少し引用してみたいと思います。

現代は説明責任ばかりあって、理解責任がない時代である。だから私は『バカの壁』という本を書いた。     

若い会社員が、「周囲が自分のことを本当に理解してくれるかどうか、心配なんです」と真顔でいう。あんたネ、そのために言葉というものがあるんだよ。そういっても、通じないであろう。いい子だ、いい子だ。そればかり繰り返し聞かされて、周囲が自分を理解して当然と思って、その歳まで育ってきたに違いない。


これは、非常に耳が痛い話ですよね。

僕らは相手の説明責任ばかりを求めて、自らの理解責任なんてものがこの世に存在することさえ忘れてしまっている。

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では、なぜ僕らも含めて、今の若い世代は理解責任を意識していないのか。

養老さんのおっしゃるとおり過保護で育てられたということもあるとは思いつつ、端的に説明しようとしてくれるひとが、世の中に多すぎるからだと思うんですよね。

誰もが「答え」を与えたいと思っている。特に、インターネットが登場した以降はそれがものすごく顕著です。

答えに広告さえ貼り付けて公開すれば、お金をもらえるからという理由で、わかりやすく答えを提供したいという人間が後を絶たない。

でもそれは水商売なんかとほとんど一緒だなあと思う。相手のためではなく、自分のためであって、そこに存在するのは楽をして快楽を得たい受益者と、発信者の金欲しさのエゴだけ、です。

このような世界で、今の若者たちに「理解責任」なんて概念がなくなってしまったのは、当然だと思います。

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ここで、話は少しズレるのですが、最近、いま話題のドラマ『不適切にもほどがある』を見始めました。

昭和から現代にタイムスリップしてきた主人公が、2024年現在の社会常識がわからないことだらけで、いろいろなことを周囲の人間に質問攻めにするシーンで、現代人が「わからないときはググるんですよ」と丁寧にスマホの使い方を教えてあげるシーンがありました。

もちろん親切心で、です。

でも、これだよなあと思ったんです。

いつの間に、僕らはお互いに問いを投げかけあっちゃダメな世界線を生かされてしまっている。

でも、素直に聞いたっていいじゃないですか。そして、自ら聞いたからには必死で理解しようと努めるはずです。

だって、相手に説明してもらって、時間と労力をかけてもらっているんだから。つまり、自分のために語ってもらえるから、自らの中に「理解責任」が芽生えるはずなんですよね。

でも、ネット上に転がっているものは、別に自分のために書かれたものやつくられたものではない。

それを無限に消費するときに理解責任なんて生じなくても当然です。

使い捨てだし、つくり手に感謝もしない。そもそも無料で転がっているものなんだから。

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そうなってくると、作り手側もコンテンツを出し惜しみするようになります。ひとりだけに言うことって、なんだかめちゃくちゃもったいない感じがしてくるわけです。

それは僕もコンテンツ制作者のはしくれだから、とてもよくわかる感情です。

これをインターネット上で公開したら、より多くのひとに届いて、さらに金にもなる。

だったら、理解責任も持たない目の前の相手に熱っぽく語るのもアホくさく感じるのも当然です。だから説明も面倒くさくなって、コンテンツ化するから、そっちで読んで(聴いて・観て)ってことになる。

でも、繰り返しますが、そのような非対称な関係性があるからこそ、説明された相手は負い目を感じるはずでもあるんですよね。

つまり、自分に対してわざわざ時間を割いて丁寧に説明して教えてもらう、そのような状況下において自分には「理解責任」があるんだということに、真の意味で自覚的にもなれる。

現代は、個別に教えてもらうときでさえも、パーソナルトレーナーのような対価を支払ったような関係性だけです。それはお金と引き換えに説明してくれているわけだから、自分に理解責任なんてあるわけがない、だって自分は「お客様」で「神様」なのだから。

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さて、話をもとに戻すと、何かを考えるということは問いを深めるということでもあると思います。

その最初の問いというのは、非常に些細なものだと思うんですよね。でも、その些細な問いは、ときに暴力的なものでもある。

僕は素直な問いを出すと、SNSという空間においては怒られるんだってことがわかったから、自分たちでコミュニティをつくって、クローズドの空間を作り出し、そこだけでは素直に問い続けられるための空間にしたいと思いました。

先日のみずのさんとのお話ともつながるけれど、僕は何気ない問いを書くことができる場所を確保しているからこそ、自分の考えを毎日書くことができています。

逆に、問いさえも気軽に表明できない状態で、一体どうやって文章なんて書くんだよと、割と真剣に思っているフシさえあります。

自らの問いからしか、自らの「主張」も生まれてこないから。そしてそれは一生「仮説のまま」であって、それゆえに「問い続ける」という姿勢が大事になる。

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でも現代で自分の意見を持たないひとのほうが大半です。

そういうひとたちからすると、無邪気な問いというのは、ときに露悪的に見えるらしいです。

でも、問いは露悪的になって当然だろう、と僕は思う。そんなことを怖れてどうするんだ、と。

子どもの問いは「なぜ虫は潰してはいけないの?なぜお友達をいじめてはいけないの?なぜ人を殺してはいけないの?」と最初の起点は、かなりサイコパスなものばかり。

でも、ここも非常に大事な点だと思うのですが、そうやって自分の中で問いが立つから、ひとは自ら進んで真剣に学ぼうとするのだと思うんですよね。

言い換えると、能動的に学ぼうとするからこそ、私には「理解責任」があると本質的に理解できる瞬間が、間違いなく訪れる。

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学びは自分に提供される「サービス」であって、「自分は学んでやっているんだ」なんて思っていたら、一生かかっても自らに理解責任なんてあるなんて気づきもしない。

それはまるで子どもに生活がすべて保証されているように、です。

お腹が減りました、といえば勝手に食事が出てきて、食べ終わったあとは、その食器をさげるのは自分ではないし、眠たいといえば布団がでてきて、布団を押し入れにしまうのは自分ではない。

そんな環境に慣れきっていたら、相手の説明責任にすべてを押し付けて、少しでも相手が口を滑らそうものなら「私は傷つきました」と弱者ムーブをとるに決まっている。

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このように現代社会は、すべてがググる、YouTubeで学ぶ、もしくはChatGPTに聴くというような形で自己完結できてしまう。

で、多くの人々は、そんな「答え」らしきものだけを多種多様に持ち合わせて、少しでも危うい問いになってくると、それは考えてはいけないことなんだ言わんばかりに、お互いに空気を作り出して、相手の口を封じてしまう。

そして、すでに完成しているネット上で公開されている「答え」、それはたとえばSDGsやLGBTQやセクハラ・パワハラのガイドラインなどによって、紋切り型の回答ばかりを持ち寄って、あたかも自分が考えたかのように提示し合う。

なぜそのガイドラインから外れているもの考えてはいけないのかと聴いてみても、「ならぬものは、ならぬのです!」と言ってくるわけですよね。

全然納得のいく説明をしてくれない。そのうち、このひとは、なんて残酷なことを考えるのでしょう!って排他的になっていく。

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どれだけお互いに説明責任ばかりを求めあっていても、世界は決してよくはならないよなと思います。

安心して、自らの何気ない問いを互いに開示し合える場所。問い続けていても許されている場所が存在することが世の中に増えるといいなと本当に心底思う。

Wasei Salonは「わたしたちのはたらくを問い続ける」対話型コミュニティです。

それぞれの問いをさらけ出せるところに、一番の価値を置いている空間です。ドンドンと浮かんだ問いを気軽に書いてみて欲しい。

それがどれだけバカバカしくても、ぶっ飛んだ仮説でもいいからぜひ書いてみて欲しい。誰も決して批判をしたり、石を投げたりなんかはしないから。(スルーされることはよくあると思います)

誰も本当の意味で、説明責任なんて果たしてくれないんです。あるのは、お互いの理解責任だけ。

でも、そうやって理解責任を果たそうとする人間のまえには、本当の意味で説明責任を果たそうとするひとも自然と現れてくれる。

そして、それがお互いの成熟へともつながっていくはずです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。