絶対に交わることのない、対立するふたつの概念。

たとえば、「戦争か、平和か」。

到底、世界共通で納得のゆく答えが出るような話ではないと思います。

しかし、現在の国際社会ではお互いのスタンスは絶対に変えずに最初から結論ありきで、自分の立場を声高に主張し合っています。

そんな世界情勢を眺めながら、少しずつ心が曇っていく中で、鈴木大拙の『無心ということ』を読んでいると、心が晴れ渡ってくるような感覚が得られる。

なぜなら、彼は理論や科学を超越して、「一即多、多即一」というようなことを言ってくれるからです。

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たとえば現代社会で、「1=10」「10=1」なんて言ったら、完全に気が狂ったと思われるでしょう(比喩です)。

でも、そうとしか言いようのないリアリティを感じ取っている場合に、自分にとって一番リアリティのある宇宙観を提案してくれているものに触れないことは、たぶん人生の嘘です。

そして、そんな価値観を提示し、同時に否定してくれるのが、「禅」の世界だと僕は思っています。

本書の中で鈴木大拙も、以下のように語っています。

ー引用開始ー

    近ごろの文化、文明というものは、近ごろのわれらの生活というものは、何も 彼 も効用とか、功徳とか、効能、能率とかいうことばかりを、やかましく言うている。ことに能率能率と言っている。

こういう ことば は、近代生活と同意義に使われています。これが主になっているので、近代生活は全く宗教とは相反している。それで共産主義は、宗教を 嫌がる。ああいう風に物質的になって、そうして能率とか、効能とか、生活向上とか、そんなものばっかり言うようになると、それはどうしても宗教と相反した世界であるから、自然に宗教を 阿片 にして、宗教はいらんということになる、それだから近代の生活は宗教とは全く相反した生活である。

宗教は今 暫く窒息しておらぬと駄目だ。しかしいくら窒息していても、出る時には 忽然として出て来るから、押えつけておくわけにはゆかぬ。しかしそれはそれとして構わんが、そういう物質の世界、物心の分かれた世界とか、論理の世界とか、そういう風に功徳ばかり言うのが今の世界です。今日はそういうことになってしまったといってもよいが、自分らはそれを一つ抜けるところを知っている、それは無心の世界である。

ー引用終了ー

宗教だ、陰謀論だと他人の宇宙観(センスオブユニバース)を否定したところで、実態のあるこの世界をどう捉えるかは、人それぞれに完全に委ねられている。

もちろん、万人において共通認識が得られない(社会的に証明できない)ことを、他者に強要することは許されないとは思いますが、しかしだからと言って、今のように科学やロジックだけを根拠にしていたら、絶対にこの世界を見誤ってしまうことは間違いない。

そのことに薄々気づきながらも、陰謀論や宗教を信じていると他者に誤解されることを極端に恐れるがゆえに、その道を避けて通ってしまうのが現代人なのではないでしょうか。

結果として、無理やり証明できることだけで納得しようとしたときに、それぞれが自己の人生内で獲得した手触り感のある世界観や宇宙観を大きく捻じ曲げることになってしまい、精神分裂症のような症状に陥るしかなくなってしまう。

それさえも、結局のところは抑圧されているだけですから、また異なる角度から抑圧されたものは噴出してきて、新たな社会問題が浮上してくるという悪循環を生んでしまう。

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だからこそ、世界が何を声高に叫ぼうとも、自分にとって大事な価値観は決して見誤らないこと。

「禅」や宗教、神話の世界認識の中には、そのための大きなヒントがたくさん隠れている。

そんなことを考える今日このごろです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。

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