昨夜観た、NHKのドキュメンタリー番組がとっても素晴らしかったです。

特に、県からの委託を受けて獣害駆除をしている時の葛藤が、個人的には心をグッと掴まれました。

「鹿に何の罪もない。ただ自由に生きているだけ。誰が害獣だと決めたのか。でも、一方で駆除することで助かっているひともいっぱいいる。矛盾しているけれど、自分の気持ちの整理がつかないところもいっぱいある」と。

この真摯さに、なんとも言えない言葉の重みを感じたのです。

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思うに、世界とはそんなに単純じゃない。

でも、何事においても単純化する方向に向かってしまうのが今の世の中です。

なぜなら、そうすることで話が分かりやすくなり、人々の合意形成や決断、実行がしやすくなるから。

その行動の結果として、お金や地位や名誉、権威など、欲しいものもドンドンと手に入る。

つまり、どちらかに振り切ったほうが、間違いなくこの世界では生きやすくなるのです。

それが戦時中になると、何かひとつのイデオロギーと運命共同体のような行動をする方向へと向かっていく。

それをハンナ・アーレントは、ナチスのアイヒマンを観察しながら「無思想性」と表現したのだと思います。

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でも、その無思想性がいかに残虐なことを、繰り返してきたのかは、もう自明のこと。

このように考えてくると逆に「思想性」とは、世界の複雑性とそのまま対峙し、自己の中にたくさんの矛盾を抱えながらも、葛藤している状態だと言えるのではないでしょうか。

さまざまな価値基準が自分のなかで入り乱れて、何が正解なのか全くもってわからなくなってしまうというような。

「あっちも正しいと思うし、こっちも同じぐらい正しいと思う。自分の行動や言葉の中にも、たくさんの矛盾が生じてしまっている。なんて自分はどうしようもない人間なのだ」と。

そうやって、ドンドン自分の手足におもりをつけて身動きが鈍くなっていく行為こそが、実は思想性そのもの。

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そんなふうに日々悩み、葛藤し続けている人間の言うことだからこそ信頼できる、心打たれる瞬間って間違いなくあると思うんです。

少なくとも、戦後の知識人のように「自分は騙されていた」と開き直ることよりも、よっぽど信頼に値すると僕は思います。

「騙された」という言葉の真意は、「怪しいとは思いながらも、目の前の利益や損得勘定に目が眩んで、自ら騙されたいと望んだ」ということだと思いますから。

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世界のほうを単純化して、自分の思い通りにコントロールしようとしないこと。

複雑怪奇なこの世界を、できる限り複雑なまま受け入れることを覚悟して、自分の内側で葛藤することを粛々と受け入れていく。

それが人間として成熟するということなのだと思います。

今回ご紹介した番組も、気になる方はぜひ実際に観てみてください。とってもオススメです。

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