それは、自らの心の中に矛盾や葛藤という感覚が生じたときだと思います。

その対立するふたつの価値観に、自らの感情が引き裂かれていると感じたとき、そこに悩みや苦しみが生まれている。

言いかえれば、自分の信じる正しさや正義感が実現されないことに対する「もどかしさ」のようなものが、苦しみの正体なのでしょう。

私の中に存在する理想と現実のズレが、私の感情を損ねてしまっているわけですね。

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でも、大胆なことを言いますが、その感情のすべてが思い込みに過ぎません。

「私の理想」という価値観自体が、この世界で人為的につくられたものなのですから。

自らの中で、どれだけ普遍的だと感じられている「真善美」や「偽悪醜」のような感覚でさえも、ドンドン突き詰めていけば、本来そんなものはどこにも存在しない。

にも関わらず、自分の理想の立場や、価値観を絶対視して、それらを固定化したまま、今の世界を眺めようするから、そこに不自然な影が生まれてしまい、大きな苦しみを生んでしまうわけです。

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だからこそ、まずは自我による束縛や執着が、いかに事後的につくられれたものなのかを理解することが大事なのかなのと。

そうやって、自らの立場を固定化せずに、世界を眺めることができれば、まったく異なる世界が見えてくる。

また、大前提として、葛藤や対立にある状態は悪いものであると決めつけてしまっていることも、実はかなり怪しいと思います。

本当はそれこそが、世界を動かしている原動力とも言えるはずなのですから。

この世界に葛藤や対立が生じるから、これまでには存在しなかった新たな問いがそこに浮かび上がってくる。

その問いを必死で解決しようとして、人類は長い歴史の中で、新たなイノベーションを生み、文明を生み出してきたわけです。

だとすれば、葛藤や矛盾を忌み嫌うことも、実は勝手な思い込みなのかもしれません。

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そしてこれは、一個人の成長においても、全く同じことが言えるはずです。

自分の中に存在する、ふたつの相反する価値観になんとか折り合いをつけようとする中で、新たな価値観や考え方が生まれてくる。

大事なことは、ひとつの価値観に縛られないこと。

葛藤や対立さえも楽しむ心、そこから生まれる新たな問いに遊ぶこと。

そんなことが大切だと思う今日このごろです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしら参考となったら幸いです。