先日開催されたWasei Salonのリアルイベント「小さな交流会」の中で話題になった「出社して、他の社員さんに囲まれるよりも、リモートワークで家で仕事をしたほうが捗る、生産性は上がりやすい」というお話。

「これってどこの時間軸で区切るかによって、その生産性の概念も変わるかも?」という話を集まったみなさんと一緒にして、それについて、今もしばらく考えているんだけれど、これって本当にむずかしい問いだなと思います。

今日はこのリモートワークの話を起点にしつつ、変化が激しい時代に起きがちな「視座のズレ」について考えてみます。

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この点、会社に出社をすれば、他の社員さんとのコミニュケーションコストや、割り込みタスクが発生しやすくなるから、会社に出社すると、意外と自分のタスクは捗らない。

だけれども、その会社内での雑談など、コミュニケーションを積み重ねていくことで、もっと中長期的に見えれば、お互いのことを理解し合って、そこに助け合う精神なんかも生まれてきて、トータルで見れば、生産性は高まる可能性は非常に高い。

だからこそ、経営層ほど出社を強制したがるわけですよね。

彼らが、見据えている「望ましい状況」というのは、中長期的なものが中心だからです。

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でも一方で、現場で手を動かしている社員層ほど見据えている「望ましい状況」は自分自身の直近のタスクの消化になるわけだから、生産性がむしろ下がると捉えてしまいがち。

これは、まさによく語られる「早く行きたければ一人で行け、遠くへ行きたければみんなで行け」という話、その典型例だと思います。

みんなで行くためには、急がば回れだし、ひとりひとりの目先の生産性をあげていくのであれば、間違いなく一人で行くのほうが望ましい。

これは正解がある話でもなく、この視座を揃えることが、今一番むずかしいということなんだろうなあと思います。

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小さな交流会にも参加してくださっていたメンバーのほしまどさんからも後日コメントを頂き、とても興味深い意見をいただきました。

それは「経営者が中長期的な視点から出社を推奨しているとしたら、その意図が現場に十分伝わっていないのではないか」という指摘です。

そして、経営層からは「中長期的なメリットを考えれば出社は必要」というメッセージがある一方で、「目先の利益を稼げ、KPIを達成せよ」という短期的な指示も同時に発信してしまっている。

この明らかなダブルバインドであるメッセージの葛藤のあいだで、現場のメンバーが混乱し、「こんなに忙しいのに、さらに負担を増やさないでほしいと反発する構造が生まれるのではないか、と。

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これは、まさしく本当にそのとおりですよね。まさにそのような「一体どっち!?」というメッセージを経営層自らが送ってしまっているのが、現状だと思います。

じゃあ、なぜ現代の経営層は、このようにダブルバインドになりがちなのか。

この点、昔はそんなことがなかった、実際にもっと余裕があったんだと思います。

具体的には、企業内が社員一人ひとりに対しての“パトロン的な存在”となり、現場と経営層の間を取り持ち、矛盾を吸収する役割を果たしていた。

もっと言うと、かつては企業外部では資本主義が支配していても、内部では社員同士が支え合い、長期的な安定を提供するという「社会主義的な仕組み」が間違いなく存在していたようです。僕自身も直接目にしたことがあるわけではなく、伝聞調ではあるのですが、複数の方がそのように証言しているから、実際にそうだったのでしょう。

でも、現代ではそれが完全にむずかしくなっているように感じます。

なぜなら、自分や会社が明日にも没落するかどうかもわからないのに、他人のパトロンなんてやっている余裕がなくなったから。

変化の激しさゆえに、いま結果を出そう、いま成果を出そうという合図ばかりが生み出されて、そうやってみんなが汲々として行く。

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これはきっと、階層化が急激に拡大し、かつその順位のガラガラポンが起きやすい社会の宿命であるし、階級社会や世襲社会じゃないことの明らかなデメリットが、まさにここあるような気もするんですよね。

その背景には経営者自身が、常にチャレンジャーであり続けざるを得ないという現状がある。

かつての階級社会や世襲社会のような安定した地位がない現代においては、経営者も明日の自分の立場が保証されていないと感じているんだと思うのです。

そのため、中長期的な視点を持ちながらも、短期的な成果も同時に追い求めるプレッシャーを同時にかけることから逃れられない。

例えば極端な話、GAFAのような巨大企業でさえ、10年後に今の地位を保っていられるかどころか、存続しているかも怪しいと言われてしまうような時代です。

イーロン・マスクのような人物も、歴史上最大の個人資産を築いても、その反面、彼らもまた常に危機感を抱えながら戦い続けている。

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これはきっと、テレビの業界の問題なんかもそうだと思います。

50年安泰どころか、自分たちが死ぬまで安泰という経営層の欺瞞というか勘違いが、テレビ業界を支えていたし、その欺瞞こそが、今回のようにテレビをぶっ壊した原因でもある。

ここは本当に良し悪しじゃなくて、構造の問題なのだと思います。

こうした状況は、企業内部での社会主義的な論理が失われ、全てが市場の論理で動くようになったことに起因しているように僕には見える。まさに「市場信仰」の成れの果て。

このようなリアルな危機感の中で、経営者がパトロンとしての役割を果たしながら、かつ挑戦者であり続けることは非常に難しい注文だということなのでしょうね。

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一方で、こうした全員が明日は我が身だとチャレンジャーとして挑戦し続ける「市場信仰」に対する明確なアンチテーゼとして、いま地域的な価値観や文化的な多様性が再評価されているのだとも思います。

経営者たちも自分たちのやり方が持続可能なものではないことを薄々理解していて、自分たちもまずいと思っている。

佐藤さんのこのツイートなんてわかりやすい。



僕は、この長く続くブランドの元祖が、まさに「京都」という街であり、京都という街の文化そのものだと思います。

技術の変化のスピードが早まれば早まるほど、京都のそのすごさを改めて強く実感する。

東京のようなスピード感や市場原理とは、明らかに異なる価値観で駆動している。

職人さんたちを中心に「深く狭く」やり続けることで、100年後も残る価値を生み出しているように、目の前のマーケットに迎合するのではなく、長期的な視点で価値を追求する姿勢が貫かれているということだと思います。

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この点、最近NHKの番組で見て、すごくおもしろいなと思ったのは、京都の古くから続く押し寿司のお店の商品の包装紙、そのパッケージイラストにまつわる話。

一枚一枚丁寧に、和紙に筆で水墨画のような線が細い感じで描かれた手書きなんです。もちろんそれが手作業によって包装されていく。

しかもその理由自体も素晴らしくて「自分たちのつくっているものは、すべて手作りだから、この包装紙も手書きじゃないと合わないと思うから」と。

このプリント全盛の時代において、そしてイラストでさえAIが書いてくれる時代に、包装紙の絵柄をすべて一枚一枚、手書きで書いている。

コスパタイパの論理からいったら、狂気の沙汰です。でも、ここにこそ一周回って「ブランドの価値」が宿り、100年以上続いている理由にもつながっているわけですよね。

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とはいえ、今から京都以外の街で、そんなことを言ったところで現場のコンセンサスなんて取れない。大企業であればあるほど、そうだと思います。

だとすれば、全てをマーケットの論理に任せるほかなくなる。そうなると、余計に共通のものさしとして「市場信仰」になってしまうわけですよね。

でも京都の場合、そんなものさしができる前からずっと続いているからこそ、それを地域社会で支える文化、つまり消費者側、観客側においてもその素養を身につけている。

それが、旦那芸としての街の文化や嗜みにもなっているから、未だに続いていられるわけですし、その結果として、海外からも珍しがられて、世界有数の観光都市として多数の観光客が訪れる結果になっている。

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話はだいぶ横道にズレてしまいましたが、このようにリモートワークと出社の議論も、短期的な効率性と中長期的な信頼やブランドの構築、そのどちらを優先するかという問題に行き着くのだろうなあと。

そして、この時間軸や、視座の違いを一体どう擦り合わせていけるのかが、今後の組織運営における大きな課題なんだと思います。

言い換えると、どうやってスピードを最大限に上げつつも、そのスピードを最小限まで落としていけるのか。この矛盾の孕ませ方、その方法を考えることが大事なんだろうなあと思います。

意外とその答えは、横道にそれたところ、足元に落ちているような気がしています。なかなかに曖昧な結論になってしまいましたが、問題意識や社会構造の認識だけでも、うまく伝わっていたら幸いです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら嬉しいです。