みんな大好き「孤独のグルメ」。
しかし「孤独のグルメ」が映画まで公開されるということに対し、そこまで「孤独のグルメ」を持ち上げないと気が済まないのかなあって、映画館で「孤独のグルメ」の予告編を観るたびに思っちゃいました。
『孤独のグルメ』のメッセージ性自体が素晴らしいと思うなら、ただ同様に「黙ってひとりで食べればいいじゃん、それですべてが完結するじゃん」と僕なんかは思ってしまう。
でも、やっぱりここまでして「孤独に食べることには価値がある、なぜなら映画化にもなってこれだけの人々から支持されているから〜」とか「それが興行収益的にも成功したから〜」というストーリーををつくりだすこと、それが実現しないと、ファンが自らの「孤独のグルメ」を称賛できないということでもあるのかなと。
でも、それって孤独と向き合うことと、一番対局にある行為であるというか、孤独がいいと思っている私自身が他者からの称賛を得たいという正反対の心持ちになってしまっているのでは…?と感じてしまう。
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で、この話と似たようなことって、世の中にはたくさんあるよなあと思うんです。
このようなタイミングにおいて、過度に市場信仰による「意味づけ」をしようとしないって、最近はまた一周回ってものすごく大事なことだなあと思います。
それよりも、自らの価値基準において、そのまま受け取ること。他者や世界に向けて、説明しようとしすぎないこと。
これは、昨年、村上春樹作品を読んでいるときにも強く思いました。
村上春樹作品ほど、作品の解釈がいたるところで語られている作家って、今の日本には、なかなか存在しないかと思います。
たとえば「これは一体何のメタファーで、ここには一体何が描かれてあるのか」とか、そんな類いの話。
でも、そんなnoteを読んだり、Podcastを聴いてみたりすると、僕にはどうしても過度な意味付けをしているように感じてしまう。称賛していても、批判していても、どちらの場合においてもそう感じました。
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そのような経験から、僕は他者の解釈を気にするのではなく、自分自身がどう読むかをもっと大切にしようと思うようになりました。
小説は、いかようにも読めるわけだから、自分のその時々の感性を大切によむべきだなと。
そして、時代によっても見方なんかも大きく変わる。だからこそ、読むという行為そのものを楽しむことが、本当に大事なのではないのかなあと思った次第です。
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このように”食べるを食べようとする”とか、”読むを読もうとする”とかって日本語にすると明らかにおかしい表現なのだけれども、そうとしか言いようのない感覚ってたくさんあるなあと思うのです。
で、この点に関連して、最近読んでいた批評家・若松英輔さんの『小林秀雄 美しい花』という本に紹介されていた、小林秀雄の話を思い出します。
この本は、小林秀雄の以下のような言葉から始まっていきます。
美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。
そして、この小林秀雄の言葉に対して、若松英輔さんは以下のように本書では解説していました。
「美しい花」は眼前に実在する個物だが、「花の美しさ」は観念に過ぎない。「音楽の富」は、調べにのせ、聴く者に「美しい花」を見せるだろう。だが、「文学化された音楽」に接した者は皆、口をそろえたようにひたすらに「花の美しさ」を語り始める。 実在は、人に存在の根源をかいま見せるが、観念は人を 饒舌 にする。そればかりか、しばしば袋小路に迷わせる。
なんだかとてもむずかしい表現で、これ自体が観念的に感じるかもしれないけれど、要するに今日のようなテーマに纏わる話を小林秀雄的に説明してくれているだと僕は思いました。
これも、他の人はどうやって読んで解釈するかではなく、自分にはそのように感じられたという話でもある。
もっともっと、対象それ自体を味わうこと。
民藝運動の柳宗悦が語る「直に観る」という話なんかにも、とても近い気がしています。
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僕らはどうしても、自分が純粋経験を通して感動したものは、他者にもそれを知ってほしいと願って、積極的に言語化して発信したり、勧誘(布教)したりしてしまいがち。
それは自然なことですし、僕も例外ではありません。実際にこうして毎日、自分が感化されたものについてのブログを書き続けているわけですからね。
でも同時に、本当に目の前にあるものを味わい尽くしているのかと自問することがあります。他者に理解されたいという願望が、純粋経験自体を曇らせてしまってはいないか。
言い換えると、「他者にも理解されたい」というある種の「推し活」のような活動というのは、純粋な布教活動というよりも「他者に理解されて承認されたい、そうじゃないと私自身が不安である」という裏返しなのではないか。
そのような願望があった場合には、元の木阿弥だろうと思います。
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繰り返しにはなってしまうのですが、このような逆転現象って、今は至るところで起きている。そして、まったく自覚がないまま、良かれと思って、布教活動を行っていたりもする。
つまり最初の入口、その動機自体は正しくても、その後の出口や社会への広がり方が、その最初の動機の真逆のことをやってしまっている現象って、ものすごく多いなと思うんです。
サウナブームやソロキャンプブームなんかも、まさにそうだったかもしれない。
どれも、SNSや共感ブームの揺り戻しとして、孤独を愛し、個人の内面と向き合い、そのこと自体に価値があるよね、という話だったにも関わらず、それ自体を共感ツールとして活用してしまっていた。
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この可笑しさに、僕たちはもっと敏感であるべきなのかもしれないなあと。
自分がベタ惚れしていて、推しに推している活動や概念、その「ヒト・モノ・コト」は正しいのか否かが不安になるからこそ、他者からの「いいね」や「市場評価」の絶対的な肯定によって、自己を納得させたくなってしまう。
夫婦やカップルが過剰に自分たちの仲の良さをSNSにアップを繰り返して、「いいね」の数、そんな第三者に承認がないと、関係性が落ち着かないことにもよく似ている。
物量や、回数、捧げる供物の量(主にお布施となるお金)で判断してしまいたくなる、この矛盾です。
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この点に関連して、ふと思い出したのですが、あの有名な作家アイザック・アシモフは、以下のような言葉を残しているそうです。
「他のすべての条件が等しければ、人は自分と同じ性別、同じ文化、同じ地方の人を応援する(中略)。その人が証明したいと思っているのは、自分が他の人より優れているということなのである。応援する相手が誰であれ、その相手は自分の代理になる。そして、その人の勝利は自分の勝利なのである」
これは多くの人が共感する話だと思いますし、多かれ少なかれ、誰もが体験したことがある話だと思います。
今は、個人の時代ではなく、コミュニティの時代と言われるように、最近までは、SNSでの個人の自己承認アピールだったものが、今は、それが有象無象に埋もれて再び相手にされない時代になったからこそ、余計に集団や団体で推すということが、当たり前となった。
自己実現が一人では不可能だからこそ、団子になって他者を推すことで、それをより大きな存在に付託する。
だからこそ、余計に映画化やそれに類似したお祭り現象に自己を投影し、付託したくなるんだろうと思います。
それ自体が悪いとは思わないし、そのエネルギーがプロスポーツ産業なんかも支えているんだとは思いつつ、もちろんそのようなエネルギーはハックされて、自らの私益に用いようとする人たちが現れることは必定です。
そして実際に、様々なジャンルにおいてそのような悪どい人々は存在しているなあとも思います。
何よりも、自分の感じた本当の感動、その純粋経験としての感動からは遠く離れてしまっていることがもったいない。
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とはいえ、もちろん、このあたりの感覚みたいなものは、パキッと切り分けられることではないと思います。
逆に言うと、純粋経験とは紙一重。というか表裏一体であり、完全に同一でもあるはず。
そして、外見からは決して見分けがつかないし、他者が判断することもできない。
だからこそ、常に自己点検が必要なんだろうなあと思います。真に判断できるのは、自分自身だけだから。
「今、私は直に観ることができているだろうか」と。
その自己点検の過程が日々の祈りのような時間でもあって、稲盛和夫さんの「動機善なりや、私心なかりしか」という話なんかにもつながるんだろうなあと思う次第です。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考と成っていたら幸いです。