昨日、「2025年に批評は存在できるのか?──90年代生まれが見透す『これから』の論壇」というシラスの配信アーカイブを拝見しました。

https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20250119
松田樹×三宅香帆×森脇透青 司会=植田将暉 2025年に批評は存在できるのか?──90年代生まれが見透す「これから」の論壇【ゲンロンカフェ出張版 in 京都】@matsuda1993 @m3_myk @satodex @reRenaissancist #ゲンロン250119 ゲンロン完全中継チャンネル | シラス
番組開始 00:08:37\ 前座配信もあわせてどうぞ! /松田樹×森脇透青×東浩紀(+大澤聡)『批評の歩き方』に応答するhttps://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20250119b【イベント概要】ゲンロンカフェ出張版を京都・祇園にて開催します! テーマは、「2020年代の批評と論壇」。ゼロ年代半ばから「専門家化」が指摘されていた日本の批評・論壇空間は、10年代を経て、どのような状況になっているのか? そして、いま批評を語るとすれば、なにが論点となり、そもそもどんな意義を持っているのか?イベントには、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)で大躍進中の文芸評論家・三宅香帆さんと、ともに批評誌『近代体操』の同人である、新刊『批評の歩き方』編者の松田樹さん、寄稿者の森脇透青さんをお迎えします。90年代生まれの批評家たちは、2020年代の批評・論壇シーンをどのように考えているのか。喧々諤々の徹底討議に、どうぞご期待ください!司会は、人文ウォッチャーの植田将暉です。(植田)■2025年に批評は存在できるのか?【ゲンロンカフェ出張版 in 京都】 – ゲンロンカフェhttps://genron-cafe.jp/event/20250119/-※ 生放送された番組は、放送終了後から半年間、アーカイブ動画(録画)として番組を公開しています。放送終了後も、番組の単独購入は可能です。※ 番組の視聴期限は予告なく早まる場合があります。その際、番組料金の返金は行いませんので、予めご了承ください。ご案内中の期限によらず、アーカイブはお早めにご視聴ください。
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イベントの最後に「対話より議論だと思う」と語った三宅香帆さんを筆頭に、90年代生まれの登壇者の方々がバチバチに議論している光景が、なんだかものすごく良かったなあと感じました。

また、偶然にも同じタイミングで哲学者の近内悠太さんと戸谷洋志さんによる一連の対談が配信されていたVoicyを聴きました。


こちらもまた鋭い意見の応酬、そのやり取りがともて新鮮で、非常におもしろかったです。

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さて、このふたつの配信を通じて僕が感じたのは、時代の空気感、その微妙な変化です。

それが今日のタイトルにもあるとおり、徐々に今の時代が求め始めているのは、対話ではなく議論の気配に変わりつつあるなということです。

この点、特にここ5年ほどは、ケアを重視した傾聴や「対話」が主流となり、多様性を認め合う空気が広がってきました。

でも、本来、対話は相互理解を深めるプロセスであり、議論は意見を深めるためのプロセスのはずです。

つまり、どちらが手段として優れているという話ではなく、状況に応じて使い分けることが重要であるということだと思います。

今は、対話一辺倒の反動として「相互理解が深まる一方で、お互いの意見が深まらない」という物足りなさや退屈感が徐々に広く認識され始めているように思います。

このあたりは、多様性を認める時代を経たからこそ、さまざまな意見が着実に育っている結果として、当然の現状ともいえそうです。

それゆえに、お互いの意見をぶつけ合い、意見を深める場としての議論の重要性が再び高まっているのではないでしょうか。

そのときには、ちゃんとバチバチに議論になるし、摩擦なんかも生じやすいということなのだと思います。

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とはいえ、ここまで読んでみて「なんだ、また時代は逆戻りか…」と残念に思う方もいるかもしれません。でも、僕はそうは思っていません。

ケアと対話の時代を経たからこそ可能となる、新たにアップデートされた議論があるのだろうなあと思うのです。

ここが今日一番強調したいポイントでもあります。

わかりやすいところで言うと、登壇者同士、お互いに敬意があり、観客側にもケアや対話の重要性という共通了解があるという点で、過去の議論とは明らかに異なる。

バチバチの議論の状態でも、ちゃんと「歯止め」が効いている状態であり、比喩的な意味で、誤って相手を差し殺したりもしないし、めった刺しにしたりもしない。

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例えば、先ほどご紹介した両配信では、時々火花が散るような場面もありましたが、それで不快感を覚えることは一切ありませんでした。

なぜなら、そこには敬意という「歯止め」が効いており、登壇者たちがそのルールを暗黙の了解として、どこまでいったらファールなのか、その時代の気分を共有していたからだと思います。

だからこそ安心し、なおかつワクワクしながら、議論を楽しむことができた。

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また、このようなアップデートは「観客側の変化」もかなり大きく影響していると思います。

言い換えると、そこには観客も一緒になって「空気」をちゃんと共有している。ファールラインが観客側にもハッキリと共有されているということ。

つまり、これは観客側の変化でもあるわけです。むしろ、こちらの変化のほうが大きい気さえします。

これは少し余談ですが、今のテレビなんかも、そうですよね。昔のノリが許されなくなったのは、テレビが変わったからではなく、視聴者である観客側が変わったからです。

逆に言うと、テレビは過去30年何も変わっていない。

観客の見方やリテラシー、あとはその倫理観が大きく変わった。その結果として、ファールラインもズレていったということです。

テレビは、昔からファールだったわけではなく、何も変わろうとしなかったテレビ局が観客のファールラインの変化を無視したまま居座ったことが、今の大炎上の大きな理由だと思います。

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さて、話をもとに戻すと、現代ではYouTubeやPodcastといった様々なコンテンツを通じて、議論の際の「トンマナ」みたいなものが広く共有されるようになりました。

その結果、議論の際のマナーが以前よりも着実に浸透しています。

それは、2025年現在、広くスマホの使い方が浸透しているとか、テレビのお笑い番組によってノリツッコミの文化や、お笑いの「空気」が場を支配しがちな日本みたいな話にも、とてもよく似ている話だと思います。

それまでの議論っていうのは、昔の「朝まで生テレビ」とか、学生運動とかのイメージだったんだと思います。

そういう映像を見せられて、お互いに一歩も譲る気がない、ただ声を張り上げて怒っているだけ、というような議論の画しか、みんなイメージとして持っていなかった。

だからこそ、若い世代ほど議論を避けてきた。それよりも、傾聴やケア、対話の方に軸足を置いてきた。前の世代に対しての明確なアンチテーゼとして、です。

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でも今って、もっと違う形の議論があり得るということを登壇者側も、観客側もハッキリと学んだんだと思います。

それは、メディアの変化、つまり時間的な制約が取っ払われたことも大きい。

たとえば、リハック高橋さんのようなファシリテーションの仕方が、議論の場で果たす役割が共有されたのも、かなり大きいと思います。

逆に言うと、田原さんや学生運動の闘士たちは、なぜ当時あのような形で主張しなければいけなかったのか?

それは、テレビの放送枠が限られていること、そして学生運動の学生たちはSNSを持たない世代だったからですよね。

そんな中でも、なんとか自分たちの主張を聞き入れてもらうためには、あのような主張や議論の方法を取らなければいけなかったというふうにも言える。

決して好き好んで、バチバチに言い争っていたわけではないかと思います。

現代では、オンラインコンテンツが主流となって、youtubeやPodcast中心に時間の制約が取っ払われて、学生たちもそれぞれのSNSを手に入れた。

そのようなメディアの大きな変化によって、議論に対する見方やリテラシーも向上しているわけです。

登壇者側も観客側も「新しい議論の形」を学びつつ、お互いに真似つつあるのだと思います。

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さらに、ここでもうひとつ大きな理由を付け加えると、コロナ禍でのリモートワークやオンライン会議の経験も、この文化に大きく影響を与えているよなあと思います。

こちらに関しては、完全に怪我の功名みたいな話です。

Zoomのようなオンライン会議ツールでは、他人が話している最中に相手の話に割り込んで遮ること自体がノイズとなるため、参加者が自然と相手の話を最後まで聞く姿勢を僕らは自然と身につけた。

相手が話している間は、自分はミュートして待っているというのがマナーのひとつになりました。

そうじゃないとZoom上では、コミュニケーションをお互いに満足に取ることができないからです。

そのようなオンライン会議のツールの制限に対して慣れた結果、その癖自体がリアルな場にも自然と広がり、議論の中での「聞く力」が以前よりも、重視されるようになっていたように感じます。

もちろん、未だに勝手に話を遮る人はいますが、「それは明らかに失礼な態度だ」とケア文脈、対話文脈、そしてテクノロジー文脈、そのような各方面のクラスタの人々から白い目で見られる「空気」が良くも悪くも現代では醸成されています。

だから、そのような論客のひとは、そもそも人気になりにくい。悪者、邪魔者扱いされる。

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以上のように、僕たちはケアと対話、そしてコロナの時代を共に経由したその結果として、新たな議論の素養を身につけてきたのではないかというのが、今の僕の仮説です。

だから、今日の冒頭にご紹介したような比較的若い世代によるバチバチの議論のコンテンツを楽しめたということなのでしょうね。

これからの時代に求められるのは、このような「敬意」のある議論の場にもなっていくのだと思います。(もちろん引き続き、従来的な対話の場も求められる)

そして、それを実現するためには、登壇者と観客の両方が議論の「歯止め」を共有し、その空気を共有していることが大事なんだと思います。

決して登壇者や、コンテンツ制作者たちだけの問題じゃない。

これは小倉ヒラクさん風に言うと、視聴者やリスナー側が「旦那芸」を身につけたからこそ、いま「対話」から、少しずつより高度な「敬意のある議論」に変化しつつあるということだと思います。

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僕自身も、一視聴者やリスナーとして、こうした敬意ある議論の場を強く求めているなあと感じています。

なので、これまでは「対話」一辺倒でコミュニティ運営や音声コンテンツもつくってきましたが、バチバチな議論が起きるような場やコンテンツなんかも、同時につくっていけたらいいなあと思います。

今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの参考となっていたら幸いです。