昨日、フォトグラファー・土田凌さんの「わたしの一歩」記事のインタビュー取材がありました。

「わたしの一歩」は、Wasei SalonメンバーがWasei Salonメンバーに対して行うインタビュー取材企画で、それぞれのメンバーの一歩踏み出した話を中心にインタビューするような企画になります。

今回の聞き手は、ライターの三浦希さん。本当に素晴らしい取材になっていました。ぜひ期待していて欲しい内容となっています。

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で、なるべく取材の内容は書かないようにしたいと思いつつ、とてもハッとさせられる話が語られていて、それが今日のタイトルにもある話です。

「土田さんにとってWasei Salonは、どんな場所?」という三浦さんの質問に対して、「Wasei Salonは、暇じゃないと考えられないことを、考えられる場所」と語ってくれていて、個人的にはなんだかとっても嬉しかったです。

もちろん、良い意味で語ってくれていたし、運営をしている僕自身もそれを強く実感している。

今日はこのお話を、僕なりの視点でなるべく掘り下げて考えてみたいなあと思います。

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人間、暇じゃないと考えられないことって、たくさんあると思います。

たとえば、「何のために生きているんだろう?」とか「時間とはなんだろう?」とか「お金ってそもそもなんだろう?」とか「なぜひとは働くのだろう?」とか。

そのような一見すると答えのない問い。問い続けても問い続けても、一向に答えにたどり着く気配がない問い。それはときにまわりから哲学的だと言われてしまったり、衒学的だと言われてしまうような話でもあったりするかと思います。

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でも、そのようなことを考えることも、本来は大切だったはずなんですよね。

そして誰もが、子どものころは当たり前のように考えていたことであったはずです。

児童文学作品で言えばサン=テグジュペリの『星の王子さま』やミヒャエル・エンデの『モモ』がまさにそのような内容であって、あれらの作品が大人になっても僕らに刺さる理由はそこにある。

じゃあ、なぜそれが大事だと思うのに、僕らは大人になるにつれて、そのことを考えることを自然と避けてしまうようになるのか。

その理由は、考えているつもりが、いつのまにか答えのない問いに対して、ひたすら悩み続けてしまう落とし穴にハマってしまうからだと思います。

何の地図も持たずに、人生の迷路の中に迷い込むから、気づけば袋小路に陥って、人生の不安や虚無からドンドン自分のことばかりを考えすぎて、結果的に鬱になる。

あるかどうかもわからない「自己」という存在と向き合いすぎてしまうんですよね。

そこからどうやって這い上がれば良いのか、何が本一体当に大事なことなのかが分かるまえに、グルグルと同じところで悩み続けてしまう。

次第に行動することも恐れるようになってしまい、ひたすら行動している周囲とは差をつけられて、生活だって困窮することになる。

考えるために立ち止まるという行為自体は、本来それぐらい恐ろしいことだったりもするわけです。

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だから一般的には「そんなことよりも、とにかく走れ!」と語られがち。

次々に高い目標を掲げて、突っ走れ!考えるのはその後でもいい、と。

もしくは、成果が見えやすいもの、たとえば筋トレや語学に精を出せ、という話にもなりがちです。

これであれば誰にでもすぐに実行可能だし、走っている最中においては、目の前のことだけに集中をすれば良く、余計なことを考える必要もない。

これらのアドバイスは一定の真理だと思います。一切否定しません。僕もその効果効能は、はっきりと認めます。

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日々に、細かないざこざや悩みのようなものも浮上し続けてくるけれど、仕事にのめり込み、そこで順調に成果を出して、お金もある程度稼げてさえいればいい。

そうすれば、周囲からも何も言われないで済む。つまり世間体も気にしなくて済むんですよね。

そして、今みたいな連休や年末年始など、少し時間ができたとしても、そこで数々のエンタメ作品が待ち受けているから、余計なことを考える心配もないわけです。

Netflixやディズニーランドのような場所に行って数々の「消費」をしていれば、そのような短期間の休暇はすぐに過ぎ去ってくれて、ある程度気分もリフレッシュされて、また仕事に熱中していればいいだけの時間が始まる。

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一方で、答えのない問いばかりを考えていると、いつか大きな壁にぶち当たってしまう。

だから、その壁に対して、背を向けて走り続けるんだ!となるんだけれど、じゃあその先に待っているのは何かといえば、今度は燃え尽き症候群や中年危機があるわけですよね。

実際、いま周囲を見渡してみても20代〜30代で目一杯走ってきた人たちのなかに、中年危機を味わっているひとたちが山ほどいる。

特に現代は、価値観も多様化してきて、幸福の姿も多種多様になってしまったから、余計にその葛藤や落ちる時の落差は非常に大きいわけです。

あとは60代以降の定年世代も、このひとたちは一体何を考えてきたのだ、と思ってしまうぐらいには、幼さや幼稚さを残したようなひとはものすごく多い。

本当に仕事のこと以外は、何も考えてこなかったんだろうなあと思わされる。

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つまり、考えすぎてもダメで、まったく考えないで仕事や日々の雑事に逃げすぎることも、あまりよろしくないわけですよね。

しっかりと先人たちの歩んできたものを頼りにしつつ、それを道しるべにしながら、ちょうどいい塩梅で考える必要がある。

ちゃんとそれぞれのペースにあった形において逃げすぎず、向き合いすぎずで、考えていかないと、どちらにせよ落ち込む時期がやってきてしまう。

たとえば、夏目漱石の『道草』の中には、中年危機の真っ只中にある主人公が「御前は必竟何をしに世の中に生れて来たのだ」と自問自答するシーンがある。

夏目漱石自身が身を粉にしながら考えたことを、小説という誰にでもわかりやすい形で描いてくれているわけです。

先人たちは、実際にこうやって描いてくれいて、そしてそれが多くの人々に読みつがれて古典にもなっている。

こういう作品を読みながら、自分が感じたことや考えたことを言語化してみながら、似たような興味関心ごとを抱えた者同士で集まり、ゆっくりと丁寧に対話してみることって本当に大事だなあと思います。

それが、土田さんがおっしゃってくれた「暇じゃないと考えることが出来ないことを考えられる場所」ということの意味なのだと僕は解釈をしました。

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さて、ここまでの話をまとめると、暇なときにしか考えないようなことを、いつまでも考えることは悩みに変わる。

だから、まず行動しろ!というアドバイスは圧倒的に正しい。

でも、ソレばかりを重視すると、今度は燃え尽き症候群や中年危機がやってくる。

それは、どれだけ若い頃に成功できたとしても、やってきてしまう。いや成功すればするほど必ずやってくる。

それを無視し続けると、自分自身が鬱になったり、家庭が崩壊したり、家族に何かしらの支障が出る。具体的には、パートナーが鬱になったり、子どもが引きこもりや非行に走ったりするわけです。

何かしらの代償として、30代後半から40代ぐらいにツケを支払わされる。

だから、ときおり無理のない範囲で、考える時間、共に対話をして行く時間をつくって、それ自体を予防できなくても、準備や覚悟ができるための時間があったほうがいい。

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ソレを考えるための、普段の日常と時間の流れが違う場所が存在すること。

そして、それは決して強制でもなんでもなく、仕事に熱中したいときは思う存分仕事に熱中し、エンタメや旅行などに熱中したいときは思いっきり熱中すればいい。

実際、僕自身もそうしています。

ただ、自分が定期的に訪れることができる場所、いつ訪れても似たような空気が流れている場所、かつ自分の居場所だと思える場所として、Wasei Salonのような空間があるということは、きっと人生に役に立つと思います。そして、それが小さな勇気にもつながっていくのだと思う。

答えのない問いを考えたくなったら、いつでも帰ってくればいい。

喫茶去精神で、暖かく出迎えて、一刻も早く送り出します。そしてまた、元気に活動して、身を壊してしまう前に戻ってきて、大事なことを考えたり問い続けたりしてみて欲しいなあと思う。

本当の意味で一番大事なことは、この「行ったり来たり」だと僕は思うのですよね。

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きっと本来は、このような役割というのは、神社仏閣や教会など、広義の「宗教(施設)」が担っていたようなことでもあったんだろうなあとは思います。

これは余談ですが、最近行った俳人・、正岡子規の記念館で見つけたとても印象深い子規の言葉に以下のような内容のものがありました。

「余は今まで禅宗のいわゆる悟りという事を誤解していた。悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きている事であった」


これは禅の考え方ではありますが、このような気づきを与えてくれる力が、宗教にはもともと内在していた。

でも、現代を生きる僕らはそのような「宗教」と括られてしまうようなもの、ましてや神や仏に対しては信心深く対峙することができなくなってしまった。

だとしたら、新たな「世間とは時間の流れが異なる空間」を、自分たちの手でゼロから創造をしていくしかない。

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立ち止まりすぎてもダメだし、流されすぎてもダメ。いい塩梅を見つけて、常に問い続けながら、自らの安寧を求めること自体に意味がある。

僕らが本当に人生に求めている「幸福」というのは、きっとそういうことだと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。