昨日もご紹介した、岩波新書から出ている『読書会という幸福』という本があります。

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この本の中には、読書会の魅力がとてもわかりやすく書かれてあったなあと思います。


「読書会にこれから参加してみたい、自ら読書会を開催してみたい!」など、読書会全般に興味がある方は、ぜひ一度手に取ってみることをおすすめしたい本。

僕自身も、自分自身が運営するコミュニティ内で長年読書会を開催してきて概ね共感できる内容で、非常に読みやすく、本当に素晴らしい内容でした。

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ただ1つ、自分とは明確に意見が異なるなと思った部分がありました。

それが「読書会はオンラインよりも、オフラインで開催したほうがいい」というお話です。

でも僕は、読書会こそ、あえてオンラインで開催したほうがいいと思っています。

今日はその理由について、自分たちのコミュニティで長年オンラインの読書会を開催してきた経験を通じて、自らの視点から語ってみたいと思います。

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まず、本書から著者の方の「オフラインの読書会が良いと思う理由」について語られている部分を少し引用してみたいと思います。

著者の方は、コロナ禍にオンライン開催がメンバーから提案されたけれど、それはあまり得策ではないと感じた理由を、以下のように語られていました。

事務的なやりとりだけならまだしも、読書会というのは相手の意見を聞き、それが刺激となって言いたいことが湧き出てくるものだ。ほかの人の話を邪魔せず、それでいて自分も遠慮しすぎず発言するには、なんとも説明しがたい微妙な間合いが重要である。そういう意味で、読書会はジャズセッションや演劇に近い営みなのかもしれない。要するにライブ感が不可々なのだ。
(中略)
わたしたちはつねづね無意識のうちに、相手の顔の微妙な表情や声音、息遣いなどをリアルタイムで察知しながら語り合っているということがよくわかる。読書会の目的は意見交換だけでなく、その場の空気を共有することなのではないかと感じた。


一見すると、何も間違ったことは語っていないと思いますし、とても共感できるお話だなと僕も思います。

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でも、僕は自らの実体験を通して、オンラインのほうが良いと思うのです。

その理由を説明する前に、まず僕らのコミュニティの読書会の進め方を、カンタンに説明してみると、その特徴は以下の3点だなと思います。

まず1つ目は、面白かった点とモヤモヤした点について、ポジティブサイドとネガティブサイド、両方について語ること。

2つ目は、必ず参加者全員でバトンリレーを回すように、全員がそれぞれのトピックについて1度は発言をすること。

そして3つ目は、自分が発言した後は、次の発言者を指名し、その指名されたひとは、指名してくれたひとの発言に対して、一言コメントや感想を添えてから、自分自身の意見について発言すること。そしてまた、次のひとへとバトンを回していく。

それ以外の場面において発言するのは、ファシリテーションを行っている人に限る。原則、割り込みは禁止というような形式となっています。

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で、この結果として起きることは、自然と「どうぞゆっくりと最後まで話してください。途中で言葉が詰まっても構わない、沈黙しても構わない、それよりも自分のヴォイスを発見して欲しい」という願いや祈りみたいなものが場の全体の雰囲気として、しっかりと醸成されていく。

そのうえで「確かに私は今あなたの言葉を受け取りました。その証拠に、あなたの感想を聞きながら、私はこんなことを考えました」と、そのバトンリレーやキャッチボールが読書会の間、常にずっと発生し続けるわけです。

逆に、オフラインの読書会も、何度か参加や開催をしたことがあるけれど、このような場の雰囲気づくりは非常にむずかしいなと思います。

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どうしても、オフラインだと空間的な圧力(例えば席順や、年齢による威厳・幼さ、服装、無意識な男女のジェンダーバイアス)によって、そこに自然と序列意識が芽生えてしまって、下手に遠慮したり下手に横柄になってしまいがち。

でもオンラインだと、そのような空間的圧力が排除されることによって、年齢や身分も和らぎ、全体がフラットになりやすい。

まさに、初期のTwitterのように、ひとりひとりが 140文字制限の中で、フラットで無機質なUIによって逆に対等になれる、あの感じです。

なおかつ、賢い意見とか、頭が良い意見とか、立て板に水みたいな意見が、語りにくくもなる。

なぜなら、まずは、聴くことを優先しないといけなくなるからです。良い意味で全体的にスローダウンしていく。

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この点、どうしても読書会は、1冊を読破したあとに参加するから、それぞれにある程度の感想や意見を秘めているのは当然であって「その感想を話したい!」という思いから入ってきてもらいやすい。

だけど、あえて「相手の感想をまず聴こう」という視点に変えてもらう。

そのクールダウンのほうが大事だなと思います。

でも、話したいことは、明確にある状態はキープしてもらう。

つまり、完読してきたという体験を通して「話したい!」と前のめりにさせつつも、同時にクールダウンもさせること。

火をつけながら、同時に火を消していく。「触れるなかれ、なお近寄れ」のようなことを、オンラインだからこそ実現できるなと思うのです。

細かな違いだけれど、これはとても大きな違いだなあと思います。

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そして、読書会の良さは、昨日のブログの中で本書を通じてご紹介したように、その本を通じて、それぞの人生それ自体を間接的に語ることができること。

だとしたら、そのときにはお互いの距離感は割とあったほうがいいと思うんですよね。

言い換えると、オンラインぐらいの距離感のほうが、実は心の底にある本音、自分のヴォイスが言えるような場面は多い。

それは、Twitter上のほうが、意外とあけすけなことを言えてしまうという感覚にもどこか似ていると思います。

もっと踏み込んで書くと、そんなふうにネット上のアバターやネット上の人格、そんなネット上のコミュニケーションの延長線上として、読書会に参加してもらうことができる。

ここには明確に、世代間の違いなんかも大きいかもしれない。

現代の若いひとたちを中心に、ネット上のコミュニケーションが主だからこそ、そのような気分になりやすいとも言えるのでしょうね。

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さて、ここで少し読書会の話題からズレるけれど、最近よく思うのは、リアルの空間の本質観取のむずかしさです。

本質観取に限らず、哲学カフェのような哲学対話のような空間でも良い。

どちらも、本当にものすごく良い取り組みだと思うけれど、場所と周囲からの見られ方次第では「建前」が極まっているようにしか見えないジレンマがある。

先日、100分de名著「フッサール」の回を観ていたら、第4回で、西研さんが伊集院さんとアナウンサーの方と一緒に、本質観取を実践されていました。


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この時のテーマは「幸福とはなにか?」について。

その場にいる全員が一生懸命に、「幸福」の本質を語ろうとして、素晴らしい議論が展開されていたのだけれど、素晴らしいがゆえに、どうしても建前的に見えてしまった。

それを観ながら、建前と本音が政治における大きな争点になっているときに、開催場所と見られ方を間違った「本質観取」って逆に結構危ういなと思いました。

具体的には、公の場(会社や学校など)建前を演じる場、なおかつ査定者に見られている場において本質観取を行うことは、なんだか逆効果に思えてしまう。

つまり、どうしてもリアルコミュニケーションにおける分人、そんなオフィシャルな私や建前に限定されてしまうわけですよね。

でも、それがいま世間で一番嫌われていること。

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逆に、昔はそれしかなかったから、そこに本音が付与されているという共同幻想を全員が抱けたのだと思います。

でも今は、インターネットコミュニケーション全盛期の時代です。

その前提でコンテンツが制作されていて、あけすけなリアリティショー全盛期。それによるマネタイズを行うアテンション・エコノミー全盛期のために、相対的にキレイゴトはすべて胡散臭く見えてしまう。

たとえ全員が本音を語っていたとしても、観客には建前に見えてしまいがちというジレンマは間違いなく存在する。

だからこそ、今のような時代はそのスタンス自体を変えないといけない。ネット前提社会だと、人々の気分自体が、昔とはまるっきり異なるわけですから。

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で、読書会の話に戻すと、だとしたらオンラインの、しかも読書会ぐらいな間接的な方法のほうが、お互いに本音を語り合えると思うんですよね。

「これはあくまで本に対する感想であって、私の直接的な想いではない」とエクスキューズをしたり、オブラートに包んだりしながら、ネットの海に、自らの言葉を流せる。

それぐらいのほうが、実はいちばんの本音を伝えやすいし、お互いに静かに受け取りやすかったりもするなと思います。

僕が、オンラインの読書会のほうが良いと思う理由は、まさにここにある。

そして何より、今この場で本音が語られているという幻想、そんな共同幻想をコミュニティメンバー全員で抱くことも可能となる気がします。

つまり、語られている内容それ自体よりも、これは場に対する信頼の問題に過ぎなくて。

そして、そのときには敬意と配慮と親切心、そしてある程度の礼儀が備わったコミュニティが恒常的に続いていると、強い実感を持てることが大切なはずです。

言い換えると、その文化が日々耕され続けていて、健やかに根付き、今日も変わらずに続いていると感じられること。きっと、それが大事。

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意外と、このあたりの話はこれまで言語化してこなかったなあと思うけれど、改めて言葉にしてみると、とても大事なことだなと思いました。

そして、僕らの読書会がうまく健全に機能し続けている理由は、きっとこのあたりにあるんだろうなと思います。

「押してダメなら、引いてみろ」じゃないですが、リアルの空間で、あけすけな本音をぶつけ合いながら熱狂するような、それこそいま日本各地で開催されているフェスのような熱狂的な状態や空間をつくり出すのではなく、

実はオンラインの読書会ぐらいの間接的で静かな深い交わりのほうが、お互いの本音をぶつけ合うという意味では適切なのかもしれないなと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。