最近、エンタメについて考えるブログを連日書き続けていたら、Wasei Salonメンバーのぴあのんさんから、宮崎駿さんのインタビュー集『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』という本の一部をご紹介してもらいました。

僕自身も、一度読んだことある本だったのですが、ぴあのんさんにオススメされた箇所は完全に忘れていました。

ということで、いま再びこの本を読み返しています。

まったく新しい本に出会い直している。10年以上も前に読んだ本だと、何も読めていなかったことに愕然とする。「同じ川に二度入ることはできない」というのは本当にそのとおりだなと。

当時、自らで引いていたアンダーラインも、今はものすごく新鮮に見える。

ーーー

で、今回は、本書の中で改めて胸を打たれた話をこのブログの中でもご紹介してみたいと思います。

それがどんな話だったのかと言えば、宮崎駿さんは『人というのはこういうものだ』っていうふうな描き方じゃなくて『こうあったらいいなぁ』っていう方向で映画を作っているというお話です。

『人間は、こういうもんだ』っていうのは自分のことを見れば、誰だってわかる。

そのだらしなさとか、そんなの今さら他人に言われたくもないし、他人に伝えたいとも思わない、そういうことで共感を得たいとも思わないと、宮崎さんは語られていました。

「その底知れない悪意とか、どうしようもなさとかっていうのがあるのは十分知ってますが、少なくともそういう部分で映画を作るのはやりたくないと思ってます」と語られていて、このあたりは、本当に宮崎駿さんらしいなあと思って、共感しながら読んでいました。

ーーー

で、さらにおもしろいのは、ここからであって、以下は直接本書から引用してみたいと思います。

ヒリスティックになったり、ヤケクソになったり、刹那的になるってことを、今、僕は少しも肯定したくないんですよ。たとえ、それが自分の中にどんなにあってもね、それで映画を作りたいとは思わないんです。それは自分に対する敗北ですよ。あのー、自分の日常生活がどれほどバカげてて、もし自分の車に機関砲がついてたら周り中を撃ちまくりながら走ってるだろうと思っても、思ってもですよ、それをただ放出するために作品を作るんじゃないんじゃないかと思います。だから、自分が善良な人間だから善良な映画を作るんじゃないですよね。自分がくだらない人間だと思ってるから(笑)、善良な人が出てくる映画を作りたいと思うんです。


これは、本当に共感するお話だなと思いながら読みました。

でも世間は、そのような価値観でつくられた作品を「説教臭い」と批判する。

この点、数年前、映画『君たちはどう生きるか』のタイトルが決まったとき、ちょうど原作「君たちはどう生きるか」のオーディオブックを「オーディオブックカフェ」の中でご紹介したことがあるのですが、そのときにF太さんにきかせてもらって驚いたTwitter上の世間の反応は「このタイトルの時点で既に説教臭い」という批判でした。

なるほど、世の中はそう見るのか!と、僕はそれを聴いたとき、結構本気で驚いてしまいました。

ーーー

余談ですが、僕が最近、ずっと薄っすら思っていることのひとつに、「説教臭い」という批判的な文脈の決めゼリフのように語られる言葉って、言いたいことわからなくもないのだけれど、それ全然批判になってなくない…?と思っています。

だったら、居心地悪いとか、耳心地悪いとか、そういう自己の不快感を語る言葉を持ち出されるほうが、信頼できる。

なぜか「説教臭い」だけは、論理的な批判の一部というか、全体を納得させられるはずであろうという客観的な文脈のなかで語られることが多くて、いつもボンヤリと違和感を持ってしまいます。

そして、説教臭いものよりも、もっと本音ベースのあけすけなコンテンツのほうを望むわけですよね。

「もっと、人間臭さ全開のものを与えてくれ!」と言わんばかりに、です。

ーーー

でもそれこそが、実は一番「理想」や「説教臭さ」を無意識に求める姿なんじゃないのか、と逆説的に思うのです。

というのも、最近読み終えた福田恆存の『私の恋愛教室』という本がありまして。

タイトルは、なんだかノウハウやハウツー系の本に思えるけれど、でもまったく違う。これは、ものすごく骨太な思想書だなと思いました。強くおすすめした。

この中で語られていた、戦後当時の「女性解放運動」に対して疑問符を投げかける、福田の話がものすごくおもしろかったです。

ーーー

以下で少し、引用してみたいと思います。

これらの考えかたの根底をなすものは、結婚の永遠性と愛の絶対性とにたいする徹底的な不信の念にほかなりません。が、この不信の念は、じつは妄執とでもいうべきすさまじきまでの愛の絶対化から生れたものであることは、すでに申したとおりです。いわば、それは愛の絶対性を裏切られたものの復讐心にすぎません。あたかも、はじめて大人の世界をのぞいた子供が、そこに許しがたい虚像を見つけ、そうなると大人のすることはなんでもかんでも虚偽と見なして、徹底的な破壊行為に出るようなものです。


これは、すごく納得感がある話だなと思いました。

自らが一度「愛」に期待をしたことがあり、その結果として深く絶望し、深く傷ついたからこそ、極端な二元論に陥って、極端な発想に行き着いてしまうジレンマって、間違いなくあるよなあと思うのです。

ーーー

でもそれっていうのはやっぱり、大きな期待の裏返しでもある。

で、だとしたら、やっぱり一周まわって、たとえ「説教臭い」としても、自らの「理想」を追求する姿勢だと思うのです。

「理想を忘れない現実主義」が、ジブリの隠れた理念であるというのは過去に何度もご紹介してきましたが、まさに文字通りだなと思う。

それが、結果的に、極端な方向、そのどちらかに割り切らずに済むことになる。

またこの福田の議論を踏まえると、「まずは古い慣習はぶっ壊せ!そうすれば勝手に新しい秩序が立ち上がってくる」というラディカル・フェミニズムや極端な左翼思想の考え方が、いかに幼稚な議論なのかが、とてもよくわかるかと思います。

ーーー

で、福田恆存は本書のあとがき部分で「自分自身の説く教えに対して、最もふさわしい教師であることより、最もふさわしい生徒であること」の重要性も説いていました。

自分自身でさえ、というよりも自分自身が最も実行困難なことを、そう感じれば感じるほど、最も熱情的に主張してしまうのが人間であって、それはまた恋愛論に限らず、どんな思想についても言えることかもしれません、と。

にも関わらず、恋愛に苦しんでいる人々の大部分が、実は恋愛に苦しめられているのではなくて、自分の「恋愛観」に苦しめられている場合があまりに多すぎる、と書くのです。

その原因は、知らず識らずのうちに、他人から教わったものが「自己の恋愛観」になってしまっているから、だと。

具体的には、世間の恋愛小説や恋愛論を読んだり、他人の恋愛を見聞きしたりしているうちに、いつの間にか形づくられたものが一般のひとが持っている恋愛観だから、です。

だとしたら、他者の思想に振り回されるのではなく、自分自身で、自分自身の思想を打ち立てていきつつ、そのうえで、自らがその最もふさわしい生徒として振る舞おうと試みるが大事であると語るわけです。

ーーー

福田恆存は、常にこの自らの思想を打ち立てて、その「自己点検」を欠かさなかったひとなのだと思います。最近立て続けに彼の本を読んでいて強くそう思います。

こちらも最近読んでいる思想史家・先崎彰容さんの『維新と敗戦』という本の中で、吉本隆明など、戦後の批評家たちを解説する箇所で、とてもハッとする話が書かれてありました。

「彼らは、徹底して他者と向きあい、どこまでも自己を顧みることを怠らない、その誠実な感受性を持っていたのだ」と。

そして「小林秀雄と江藤淳さらには福田坂存、わが国で批評家になるための必要条件は、この繊細で弾力ある感性にあると思う」と書かれていて、実際にこれはその通りだったのだろうなあと思います。

ーーー

この「自己点検」、そこから必然的に立ちあらわれる自らのどうしようもなさと、それを克服していこうとする姿勢が、大事なのだと思う。

さもないと、あけすけなコンテンツ、もしくは何でもかんでも理詰めで考えていって極端な二項対立に持ち込み、既存の秩序や古めかしい慣習や伝統はすべてぶっ壊せ!という話にしてしまいかねない。

両者の態度は真逆のようでいて、福田が語るように、どちらもそれは裏切られた「理想」に対する復讐心にほかならないわけですから。

つまりどちらも、自分が期待した「愛」に絶望したがゆえの、ニヒリズム的な態度にほかならないわけです。

ーーー

自らが強く絶望していることをまずはしっかりと自覚し、それゆえの自らの享楽を追い求める心や、破壊衝動が湧き上がってくることも同時に深く自覚をする。

そしてだからこそもう一度、希望を持ちながら、小さくても構わないから、自分なりの思想を立ち上げて、その「理想」を自らの足で一歩ずつ実践していきたいなと思わされる。

たとえそれが一部の人々から、説教臭いと言われようとも、です。決してそうやって「説教臭い」と批判してくる人たち、つまり「他者」も排除せずに。

いかにそれがむずかしい場合であっても、自己点検をしながら「理想を忘れない現実主義」の道を行きたいなと思える。

それがWasei Salonの掲げる「問い続ける」ということの意味でもあるなと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のブログが何かしらの参考となっていたら幸いです。