サロンの中で、メンバーのみなさんが書いているブログを読んでいると、時々本筋から大きく脱線したり、余談が始まったり、話自体が思わぬ方向にズレていったりすることがあります。
個人的には、この「ズレ」や「脱線」が、とてもおもしろいなあと感じています。
一般的なWEBメディアやnoteの記事だと、こうした脱線は編集段階で省かれがち、もしくはそんな本筋とは関係がない脱線があった瞬間に、離脱されてしまいがち。
それゆえになるべく無駄を削ぎ落として、効率よく情報や知識、結論を届けることが優先されます。
ところが、同じような脱線であっても、コミュニティメンバーが書いたものであれば僕はそれさえも興味深く読めてしまう。
これは一体なぜなんだろう?と最近よく考えてしまいます。今日はそんなお話になります。
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この問いを考えるときに、まず思い出すのは、僕らが「”はたらく”を問い続ける」ということをひとつの旗印に集まっているコミュニティだということです。
もともと明確な結論や答えを、お互いに期待して共にいるわけではありません。
むしろ、その答えを探し続けるプロセスや、その過程で起こる葛藤や躊躇いにこそお互いに興味を持ち合っている。
だから、ブログを読みながら「で、結論は?」とか「要するに何が言いたいの?」といった問いは生まれてこない。
むしろ、脱線した話のほうがすごく面白くて、そのまま寄り道を続けて欲しいぐらいなのに、途中で無理に本筋に戻られると「なんだ、戻っちゃうのか」と残念に思ってしまうことさえあります。
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で、こうして考えてくると、僕ら人間は結局、対話や交流のなかでも、この「ズレ」や「脱線」のほうを楽しんでいるのだろうなと思えてきます。
一番わかりやすいのは、飲み会。
飲み会の話は、別に結論や目的を持たないですよね。なにか結論を出したくて飲み会をやっている人なんてほとんどいないと思います。
そして、最終的にはその寄り道だらけの対話が楽しかったよね!という形で満足して、それぞれの家路につくわけです。
また、複数人が対話しているPodcast番組なんかもそうだよなあと思います。
そうやって、出演者の掛け合いを楽しむようなポッドキャスト番組ほど「今それを聞いて思い出したんだけれど〜」という話の連続であって、最初の問いやテーマからはどんどんズレていく。
でも僕らは、そんな話がズレていくところに「その人らしさ」を実感して、満足感を覚えているはずなんです。
で、こういう話をするとすぐに、それは「グルーミング」的な話だと解釈されてしまいそうなんだけれど、全くそうじゃなくて、僕はここにこそ「知的快楽の源泉」のようなものが存在しているなと思っています。
このあたりからが、今日の本題に入っていきます。
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じゃあ、それは一体どういうことか。
この話を考えるときに、いつも思い出してしまうのは、内田樹さんが主催するゼミの話です。
内田さんがいろいろなところで語られている話ではあるけれど、『街場の米中論』のまえがき部分が、とてもわかりやすいので、その話をベースにしながら、ここでも少しご紹介してみたいと思います。
内田さんはゼミで、学生の発表が終わったあと、その内容に直接コメントすることはあまりないそうです。
代わりに、「その話を聞いているうちに、思い出したこと」を語り出すのだと。その話は発表テーマとは無関係であることが多いらしいのですが、その脱線にこそ知的な豊かさや面白さがあると内田さんは指摘しています。
ゼミ生たちも、その脱線話を聞きながら「自分もそういえば…」と自分自身の記憶を掘り起こして楽しみながら、この「思い出し」が連鎖することで、ゼミは非常に活発で知的な空間になると書かれていました。
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ここで内田さんが重視するのは、知識を単に情報として吸収することではなく、「今まさに思い出す」という創造的な働きのほうであり、それは「自分自身の記憶のアーカイブを探索する行為」だと書かれていました。
自分たちの記憶に深く眠る物語を掘り起こし、新しい視点を発見するプロセスこそが知的活動の核心だと内田さんは語られていて、これは本当にその通りなんだろうなあと思います。
で、このような知的な脱線が可能になるためには、聞き手と語り手のあいだにに信頼と安心感が必要となるわけですよね。
たとえ予測不可能な方向に話が進んでも、周囲がついて来てくれるという確信があってこそ、安心して脱線することもできる。
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で、きっとここまで読んでくれた方の多くは「じゃあAIは、話を脱線することができないのか?」と思っていると思います。
もちろん、そんなことはありません。AIでさえも、いくらでもランダムに脱線できます。むしろ笑っちゃうぐらいに、見事な脱線を繰り広げてくれる。それはときに、人間以上に、人間的です。
でも、ご自身で実際にやってみてもらえればすぐにわかることなんですが、そのランダム性に対して、僕ら人間側が興味や価値、意味を見いだせないんですよね。
もっと端的に言えば、その対話のやり取り自体が全く楽しくない。
その理由はきっと、「なぜAIがそれを語りだしたのか」がわからないし、それを引き受けようと思える感覚自体も湧き出てこないからなのでしょうね。
つまり、AIが展開する脱線や逸脱は完全にランダムであっても、その背景となる「人格」や「経験」自体が欠落しているため、どうしても表面的で「共感」や「受容」の対象になりにくいわけです。
言い換えると、その背景を掘り下げようとしても、そこに根拠となる「生きた記憶」や「人生経験」がない。だからこそ、人間の脱線と異なり、AIとの間では知的快楽にはつながりにくいのだと思います。
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つまり、なぜ、あなたは今それを思ったのか?そんなふうに、そのひとの中にアーカイブされていた記憶に対しての「敬意」みたいなものが湧いてこないと、これはおもしろくない。
共に「物語の再解釈」を行う喜びみたいなものが、感じられないわけです。
脱線自体がたまたま偶然かもしれないけれど、その偶然性ゆえにその記憶のアーカイブに一緒に降りていって探索する楽しさみたいなものこそが、大事だということなんでしょうね。
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でも、現代社会のように、コスパやタイパを重視して「要約しろ!結論はなんだ?」ということが急き立てられて、そればかりがメインで語られるようになってしまうと、そのような脱線自体がドンドンと減少し、発言自体も萎縮していく。
本当は、今日語ってきたように話が大きく脱線しながら、お互いの記憶のアーカイブの中にあるものから突然探り当ててくれるもののほうに、対話の価値があるように思います。
そしてこれは、受け取る側の”受動的主体性”みたいな問題でもある。
つまり、受動的ながら主体的にその脱線を受け止めて、積極的に自分の記憶や感覚を掘り起こして反応する姿勢があると、脱線そのものに価値が帯び始めるということです。
そして、その受動的主体性を引き出すのは、対話や交流を通じて築かれた場の「安心感」や「信頼関係」なんです。
この関係性があることで、脱線が許されて、それが新たな文脈や発見を生み出していく。
もちろん、ここでくれぐれも注意が必要なのは、脱線する側もそれをやりすぎると大いに滑るということです。
実際、サロン内でも盛大に滑っているのをよく見かけるし、僕自身もこれは完全に筆が滑ったなあと思うことは多々あります。
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他人の予測可能性がない話についていくのは結構な体力が必要となる。だから、好き勝手に縦横無尽に脱線しまくるような行為も、よろしくない。
それは聞き手に対する敬意や配慮が欠けている状態です。
やっぱりそこにはある程度の予測可能性が働いていないと、相手には不快感を与えるし、「この話はついて行っても大丈夫かな・・・?」という不安の中でもついてきてもらうなら、そのあとになにか新たな洞察を必ず付与したいなと、僕なんかは思います。
でも一方で、サロンの中でブログを書くようになってから、ある程度の脱線であれば離脱しないでついてきてくれるという信頼感なんかも、そこに同時にあるわけです。
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コミュニティとしてつながり続ける価値なんかもきっとこのあたりにあって、このひとの脱線には、ついていっても大丈夫だという安心感、それは相手への信頼でもあり、場への信頼でもある。
決して、望まない場所に連れて行ったり、独りよがりなことはしないだろうという信頼感のもとについて行ける。
つまり、その両者の掛け合い、お互いに対しての信頼し、親切心と敬意もある中で、ちゃんと脱線したことに対する失礼も詫びること。
そうやって、深いところでつながっていくと、そのときに一番知的化快楽が発動する形になりやすいということでもあるのでしょうね。
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そして、そうなってくると、もはやこれは一体誰の話?とも言えるわけですよね。
だって、それは完全にその場に集まる人々の「共同作業」なわけですから。
だからこそ、大いなる脱線の瞬間を、僕は全力で包摂していきたいなと思う。ここに生身の人間同士のコミュニケーションの本質的な価値があると思うから。
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脱線、余談、ズレ、その非連続性のなかに構築できる架け橋が必ずある。
言い換えると、情報や知識としての主題やテーマだけでつながらないこと。それは必ずコスパ・タイパ・要約・結論主義の犠牲になる。
そっちを重視すればするほど、知的快楽は不活性化していく。
結果として、参加者全員が最初から切れ味の鋭いストックフレーズばかりを頼りにして、そればかりを口にするようになる。
そうじゃなくて「今思い出したんだけれど〜」「えっ、なになに?」「そのお話ぜひきかせてください!」と、そのズレのほうこそを、楽しみ合う関係性を構築していきたい。
それが人間の対話の価値やコミュニティの価値そのものだと思うからです。
AIがこれだけ発展してきたからこそ、今あらためて脱線の価値を考えてみたいなと思って、今日のブログにも書いてみました。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

2025/04/10 20:37