最近、自炊料理家・山口祐加さんの新刊『自炊の壁: 料理の「めんどい」を乗り越える100の方法』を読み終えました。

https://amzn.to/4lpBXsc

この本を読了しても思いましたが、山口さんの自炊料理家として革新的で、なおかつ美しいほどに一貫しているところは、従来の料理道からは、いい意味で完全に逸脱しているところ。

たとえば、山口さんは野菜を茹でるだけ、焼くだけでも料理だとするし、コンビニのお惣菜に一手間加えるだけでもそれは立派な自炊だと語ります。

従来の料理家さんたちが、ことごとく「そんなものは料理ではない」と鼻で笑ってきたようなところを決して見捨てずに、一般的な料理家が事前準備とか過度にこだわる調理器具など、そのあたりを自炊の概念から外すところが、本当に素晴らしい。

でも決してそれは闇雲にハードルを下げているわけではなくて、それよりも「自炊体験の本質」を味わってもらおうとしている結果。

言い換えると、料理を体得した先にある世間体とか、そこで得られる地位や対価ではなく、その本質部分にショートカットして、一足飛びで自炊の快楽を本人に味わってもらおうとしているところが素晴らしいなあと思います。

今日はこの感想をきっかけに考えた、邪道を通って「本質」へ近づくという作法について、このブログの中で考えてみたいなと思います。

ーーー

この点、日本人は何でもかんでも、形から入ろうとしがちです。

「郷に入っては郷に従え」というように、面倒くさい儀式にもちゃんと従おうとしてしまう。

でも、当然それは文字通り「面倒くさい」わけですよね。だから古参だけが残って、新規参入者はドンドンと減っていく。

でも、そんな面倒な儀式は不要だから、まずはダイレクトに自分の力で味わって欲しいという強いメッセージが、山口さんの本からはいつも伝わってくる。

できるだけ心理的・物理的ハードルを下げて、その「道」的な価値を味わってもらおうとするところがいつも素晴らしいなあと思うのです。

そして、いま多くのサービスやビジネスで当たっているものも、基本的にこのタイプ。

「めんどうくさそう…」というハードルできるだけ下げる方向。チョコザップも、タイミーも、着替えや採用面接など、面倒な契約関連も一切ない。

あと以前ご紹介したイーロン・マスクのファースト・プリンシプルズ(第一原理主義)なんかも、まさにそうですよね。


「普通」とか「常識」とか、そうやって空気によって存在しているだけのありとあらゆる複雑性を一度すべて解体して、本質に立ち返ろうとする姿勢。

このようなサービスやビジネスがいま世の中にウケている共通項だなあと思います。

ーーー

で、そのためには一度「道」を完全に外れることにも、意味がある。

ここが、とても重要なポイントなのだと思います。


もっとわかりやすく言い換えると、あえて一度「道」における「王道」から外れて、「邪道」を通ること。

逆に言えば、邪道を通ろうとするから、正統派のひとたちからは異端扱いをされて、ものすごく嫌われるわけですよね。

型を重視する保守的なひとたちからは、徹底的に嫌われる。自分たちが作り出した既得権益を壊そうとしているように見えるから。

ーーー

そして、これは仏教の「嘘も方便」なんかにも通じるような話だと思うのです。

そのような邪道、つまり嘘であっても、本質に対してより近づくためなら、その手段も許される、それが嘘も方便の意味合いです。

で、この点で非常にわかりやすかったのが、仏教学者・ひろさちやさんの禅僧・道元の解説本の中に出てくる「方便」の話。

以前もご紹介した『道元を生きる』という本から引用してみたいと思います。

仏教語として(の方便)は、サンスクリット語の”ウパーヤ”の訳語であって、これは「近づく」といった意味です。大乗仏教においての目的は、もちろん仏になることですが、ではわれわれはいつ仏になれるかといえば、無限ともいえる遠い遠い未来においてです。ある意味では、われわれは生きているあいだに仏になれないといってもよいのです。そうするとわれわれにできるのは、仏に向かって歩み、仏に近づいていくことだけです。その近づくことこそが方便なのです。


この説明は非常にわかりやすいなあと思います。

だから、邪道、ある種の「嘘」を通ってでも、そこに近づくこと自体が重要になるわけですよね。

ーーー

でも、さらにここでもう一度ひっくり返したいのだけれども、これは近づくだけであって、決して直接触れてはいけない、ということでもあるんだよなあと思います。

とてもわかりにくいとは思いますが、こちらも非常に重要なポイント。

こちらは最近読んでいた松岡正剛さんの本の中に出てきた「触れるなかれ、なお近寄れ。これが日本である」という話なんかにも見事につながる話。

松岡正剛さんは「限りなく近くに寄って、そこに限りの余勢を残していくこと、これが和歌から技芸文化におよび、造仏から作庭におよぶ日本の技芸というものなのだ。」と『面影日本』という本の中に書かれていました。

僕は、これを読んだときに、本当にものすごくハッとしました。

ーーー

で、この感覚からすると、「邪道」はなぜ邪道だとして嫌われるのかと言えば、その理由は単純明快で、対象に対して直接触れてしまうから、です。

ベタベタと触ってしまう。触るだけなら良いけれど、その柔らかくて脆い核心部分を壊してしまう。

「それをやったら、おしまいよ」ということを、普通に土足で踏み込んでしまう。だからこそ、邪道と呼ばれるわけです。

逆に言うと、王道の細かなルールや複雑な仕組みというのは、その本質部分を壊さないために張り巡らされた結界でもあるわけです。

だとすれば、「限りなく近づきつつも、一番大事なところは触れさせない」ということがめちゃくちゃ大事になってくる。

ここが、嘘も方便が許されるか否かの分かれ目でもあるということです。

で、今は、そのための邪道的な「環境」を上手につくることが大事なんだろうなあと思いますし、それでただの破壊者なのか、はたまた救世主なのかが、わかれるポイントでもある。

ーーー

さて、ここまで考えてくると、現代の最大の問題点というのも見えてくるかと思います。

それは一体何かと言えば、触れさせないために、同時に全く近づけさせない形になってしまっていることですよね。

ありとあらゆるルールや慣習、古めかしいものが、本質や核心のまわりに複雑に檻や柵のように張り巡らされてしまっている。

そうすれば、確かに「触れるなかれ」という目的は見事に達成できるのだけれども、同時に近づくことさえできない状態に陥ってしまうわけです。

ーーー

たとえば、このあたりは今の京都にでも行けばすぐに分かります。

京都にはありとあらゆる神社仏閣に「本物」が存在し、それらが展示されているけれど、今はどこの施設も、とにかく人を近づけさせないようにしています。

そして、そのための注意書きなんかも至るところに張り出されてしまっている。そのせいで、景観なんかも丸つぶれ。

インバウンド観光客が来る前までは、ここまでじゃなかったはずなのに、いまは多言語で注意書きだらけになってしまっています。これは本当にもったいない。

で、そのような柵や結界が邪魔をしていると思うからこそ、邪道も横行する。

つまり、チェーンソーなんかを持ち出してきてその柵をぶっ壊し、ファースト・プリンシプルズのようなことを大胆に断行するひとたちが現れる。

それは、とても大胆不敵な行動に映るのだけれど、でもそうすると今度は行き過ぎて、直接触れさせてしまうから本末転倒。

で、そんな様子を観ながら、正統派や保守派のひとたちは「これだから、にわかは」と言い放つ。この悪循環がまさに今だと思うのです。

ーーー

つまり、あえて「邪道」を経由しつつ、ギリギリまで近づけさせて、かつ触れさせないこと、本質を何よりも大切にしつつ、その本質を身体知を通して体感してもらうこと。

この価値を「嘘も方便」を通じて、うまいこと提供することができるひとが今は圧倒的に強いんだろうなあと思います。

それはもはや、情報や知識として「役に立つ」という話だけではなくて、本人にとって唯一無二の体験として「意味がある」ということなんかにもつながっていく。

そこに、実需や市場的ニーズなんかは関係なく「道」としての価値が宿るわけです。

ーーー

最後に今日の話を簡単にまとめてみると、

・邪道とは、本質へのショートカットである。
・そして、邪道が許される条件は、本質に直接触れずに、限りなく近づくことである。
・でも現代は、本質に近づけない問題があり、そのため「適切な邪道」を提示する価値が高まっている。

そして僕は、「書くこと」や「対話すること」という側面において、このWasei Salonという場でいい意味での「邪道」を提供していきたいなあと思います。

なぜなら、もはやAIの登場で「書く」も「対話」も「役に立つ」というようなフェーズ感の話ではなくなったからです。

でも、書くや対話を通じて出会える、もうひとりの自己や、他者との邂逅は、市場的価値がつけられないくらいに本人にとっての本質的な「意味」や「価値」が宿る。

そのためには「嘘も方便」としての邪道を通りつつも、決して触れないこと、本質を見失わないようにすることが何よりも大事なんだろうなあと思います。

今日は比喩的な話が多くて、少々わかりにくかったかもしれませんが、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。