AIが一般的な人間以上の文章を書けるようになった今、書籍を書いたり、ウェブ記事を書いたり、ブログを書いて広告やアフィリエイトなどで対価を得るという仕事自体がなくなっていくというのは、世間でよく語られる話です。

そうなると、文章を書いて生業にするというのは、本当に一部の達人技になっていくかと思います。

具体的には、村上春樹さんの文章のように、情報・知識・感情、さらにそこにリズムの良い文章が合わさって、そのリズムの良さゆえに、身体的な感覚として何故か心地よいというような感情を揺さぶる文章を書ける人々だけが残っていく。

これは、身体的な快楽のようなもので、ある種のヒーリングのようなものにも近い。

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そのほかの文章は、少なくともそれ単体が商品としての価値を持つような実用としての文章ではなくなっていく。

そうなると、文章を書くという行為が、「生業」や「稼ぐ手段」から見事に切り離されていく。結果として残るのは、本当の意味で文章道のような「道」として、文章を書き続けてたい人だけになるはずです。

そんな「道」としての書くという行為について今日は考えてみたいなと思います。

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思うに、これは歴史が何度も辿ってきた経緯でもあるはずです。

たとえば、日本に鉄砲が入ってきて、それが一般化した結果、明治以降は「剣術」から「剣道」に変化していったわけですよね。

で、当時華々しく武士が散るような西南戦争みたいなものも行われて武士の時代がそこで完全に終了した。

もちろん、だからといって、すぐに武士が完全に消え去ったわけでもなく、西南戦争後も明治40年ぐらいまでは武士は存在したらしいです。

それは以下のブログにも書いた通り。


今回も似たような道を辿ることは間違いないので、あと数十年は文章を生業にするひとたちもいなくならない。

死ぬまではそのひとたちはファンに対して、自分が書いた手作りの文章を売り続けるでしょうし、ファンもそれを買い続けて、その小さな経済圏は、両者が死ぬまできっとなくならない。

でもやっぱり長期的に見れば、剣術が衰退消滅したことと同じように、実需としての役割は失われて、ここから文章を書くという作業は「剣道」のようなものにならないといけないんだと思います。

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で、そうなると、明治以降も剣道を続ける人たちと、ただ人を殺すための道具、もしくは出世のための手習いや手段として剣術を用いていた人たち、その違いが浮き彫りになり、自分の食い扶持のために刀を用いていた人たちが、誰かも当時ハッキリしたんだと思うんですよね。

じゃあ、その前には剣道のような道は存在しなかったのか?といえば、決してそうではないとも思います。

生業としての剣術としての時代においても、剣道はもともとあった。あとからつくられたものではないというのも、ポイントだと思います。

「道」は道として、その価値をはじめから内在していた。

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もっともっと歴史を遡れば、昔の「仏教」なんかもそうだったのだと思うんですよね。

政治やお金、権力のために仏教伝来を恣意的に用いていたひとたちが、仏教を国内に広く普及させた。

でもそこから少しずつ、科学的、合理的な思考が入ってきて、仏教は宗教としての色彩のほうが強くなっていった。

そのような場面になって初めて、誰が本当の意味で道を歩むために仏教、つまり「仏道」に取り組んでいたのかが、はっきりと分かるタイミングがやってきたのだと思います。

でも、もともと「仏道」も、最初から仏教の中に存在していたとも思います。そこに優劣なんて存在していなかったはず。科学が入ってこようが合理的な判断が主流になろうが、仏道という道は普遍だったはずです。

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たとえば、もっと卑近な例で言えば最近の料理や自炊だって似たような道を辿っていると思います。

コンビニやUber Eatsのようなものが普及してくると、誰が本当の意味で、料理道をやっていたかがわかるようになった。

逆に言えば、生活に必需なことだったり、お金や稼ぎにつながるものだったりする場合において、まだまだこのあたりがごっちゃになっている状態とも言えるのでしょうね。

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で、ここで大切になってくる視点というのは、「道」としたほうが圧倒的に後世に残るものになるという点だと思います。

なぜなら、商売や生業としての作業ではなく、人間育成、修練のための方法になるからです。

逆に言えば、ジャンルは何でも良いから、この「道」の部分さえ鍛え上げられていたら、そこから派生してなんでもできるようになるとも思います。

「道」を習うというのは、本来そういう役割。

道を極めようとするひとの生き方そのものを問う感覚から生まれてくる、自己を変容させる価値が生まれてくる。

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一方で、実需というのは、自分を変えずに、自分の思惑通りに世界から何かを得ようとする行為でもある。それだと、実需が変化した時点で、自分も一緒に衰退してしまう。

だからこそ、日本人は、職業とは別に職人的な道にこだわったんだろうなあと思います。

その先に、いわゆる「修身斉家治国平天下」みたいな世界もあるんだろうなあと思ってしまいます。自己の身を修めることが、最終的には天下泰平にもつながる道になるのだ、と。

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で、このあたりに、きっと「遊び」と「道」の違いなんかも存在するのでしょうね。

両者に優劣があるとは思わないけれど、僕は「道」のアプローチのほうが個人的には好み。

このあたりは、昨日の話にもダイレクトにつながる話だと思っています。


書くこと自体はそれほど好きではないし、なんなら書くこと自体を憎んでいたりもする、しかし、それでも書かずにはいられない、という衝動の先に拓けてくるものが「道」であるという感覚です。

一方で、「遊び」は遊び自体に夢中になること。「大好きなこと」そのものだと思います。そして、遊びは、遊び自体を自己目的化する。

もちろん、そんな遊びも突き抜けると、結局は道も同じものを目指していたという境地に辿り着くのだろうけれど、でも僕は遊びルートよりも、道ルートのほうが好きなんだろうなあと思います。

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だからこそ、もちろん僕自身も、そんな道としての「書く」といういことを、これからも続けていきたいなあと思うのです。実需とは関係なく。

そこで得られた知見や身体知のようなものがきっと、コミュニティ運営や自分自身の生き方そのものにつながっていくと思うからです。

「自分で書いてみる」その実践を通して初めて、自分自身が変化をして見えてくることがあるんだろうなと思っています。

先日、池内代表がVoicyに出演してくださったときに、先に何かを自らに宣言してしまう「宣言効果」の話をしてくださったけれど、まさにそのようなイメージです。

池内代表は「オーガニック道」を歩んでいて、だからこそ多くのひとに、オーガニックに関係ない部分の池内代表の意見や助言であっても、普遍性をもって受け入れられるものになっているんだろうなあと感じます。

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最後に、繰り返しにはなってしまうけれど、もう文章を書いて、その生産活動を通じてお金を得たり出世したり、そんな労働生産に直結するような勝ち筋は存在しなくなりました。

でも、それ故に、ここからが本当の意味での「書くこと」、その「道」の始まりであり、スタートラインでもあると思います。

実需が失われると、本質だけが残る。

便利で即効性のある文章をAIで誰でも手に入れられるようになった結果、逆に「自分はなぜ書くのか?」という問いがより純化され、書き手の意識を強く揺さぶってくれる時代に入ってきたのではないか、それが今日の結論です。

そう考えると、とてもとても実需のあいだが長かったものが「書く」という行為だったということでもあるのでしょうね、まさに、ペンは剣よりも強しみたいな話。

で、今まさにそのペンでさえも、「道」になろうとしている。個人的には、それがとても楽しみだったりもします。

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これは、「AIに任せることで、人間がより純粋に道に専念できる」という逆説的な見方にもつながる話であって、AIを「敵」ではなく「助け」として位置づけて人間が道に専念するための道具として、再評価することもできるわけです。

つまり、これからは「書く」という行為に限らず、ありとあらゆる職業や仕事が、その「実需」をAIに完全に奪われて、同様の変化をたどり、「道」化していくということなんでしょうね。

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書くという行為に限らず、AIの登場によって、人々が純粋に道に専念できる、そのそれぞれの道を歩み続けるための「道場」のような場として、このWasei Salonが機能していったら本当に嬉しいですし、そういう場として、これからもこの場を続けていきたい。

「道」を歩むスキルさえ自らを修練することができれば、他にどんな困難が目の前にあらわれても、自らの力で、自分の人生を切り拓いていくことができると思いますから。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとって、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。