「ネット上で、議論をすることは不可能」

広くそのように語られるようになって、もう10年以上経ちます。

今日もネット上のどこかで何かが炎上してして、群衆の大きな波に飲み込まれてしまっている。

どれだけ必死に自らの意見を主張しようとも、全く話が通じない匿名の人々に囲まれてしまい、身動きが取れなくなってしまう。

それが日常的にネットを使っている人たちの一般的な感覚だと思います。(細田守監督最新作の『竜とそばかすの姫』では、この辺りの描写が絶妙でした)

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一方で、リアルにおいて、ちゃんと話が通じているように感じる会社のような空間であっても、実際のところは「利益」偏重主義となってしまっている。

あらかじめ向かう方向は決まっていて、どれだけ「対話」を大切にすると経営者が口にしてみても、「儲ける」という前提で話は進んでいく。

また、学校のような空間は、「同調圧力」が常に蔓延していて、異端を許さない空気に支配されてしまっています。

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このように私たちの身のまわりでは、ネットでもリアルでも、基本的に話が通じない(対話が困難な)空間ばかりが広がっているのが、2021年の現状です。

このような状況下で、現代に生きる多くの人が「対話する」ことに学習性無力感を感じてしまうのは、当然のことだと思います。

いわゆる、ハンナ・アーレントやハーバーマスが主張したような「開かれた対話ができる公共空間」は、夢のまた夢となってしまっている。

「確かに理想はそうかもしれないけれど、現実は決してそうじゃないよね」と、社会に対して絶望してしまっているひとが日に日に増え続けている。

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しかし、「開かれた対話ができる公共空間」が人間の健やかな人生を送るうえで必要なことはきっと間違いない。

他者との対話を通して初めて、自分自身の意見が明確になり、それが浮き彫りになってくるのですから。

そうだとすれば、ちゃんと対話のルールが成立する空間、「対話」における成功体験を得られる空間が必要になってくるはずなのです。

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では、それをどうやって創り出せばいいのか。

僕は、そのような「公共空間」は小さくても構わないと思っています。

規模感はあまり関係ない、むしろ参加した当事者が社会に対して対話ができているという手応えさえ感じられればいいのだから。

そもそも、国民国家という共同体もある種の共同幻想に過ぎない。

民意(主権者全員の意見)が正しく反映されているという仮定のもと進んでいくのが、間接民主制の仕組みです。

だとすれば、本当に必要なことは「ちゃんと社会と私が対話ができている」という当事者の実感こそが重要になってくるはず。
 
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そして、これは自分自身で体験してみて本当に強く実感するところなのですが、たった3人でもいい、

家庭でも会社でも学校でもない、公共空間(社会)が自分の意見に耳を傾けてくれているという感覚から生まれてくる安心感や、そこからみなぎってくる活力にはホントに凄まじいものがある。

そんな場を何度か体験するだけで、自発的に社会に関わっていこうと思えてくる。

自己の内側から、新たな問いも自然と立ち上がってくるようになります。

たぶん、そのような公共空間が今の世の中には圧倒的に足りないのです。

だからこそ、僕はこのサロンを通して、そんな公共空間をつくっていきたいと日々思っています。

対話における学習性無力感を感じてしまっている現代人にとって、リハビリとなるような空間。

人を勇気づけるのはやはり、小さくても「現実」としてそこに存在していることだと思うから。足もとから一歩ずつ丁寧に。

そんなこと考える今日このごろです。