その楽しさの要素のひとつとしてよく挙げられるのが、「自分にはない視点を得られるから」というもの。
この意見は、僕自身もとても共感します。
自分以外の視点を獲得できることは、とっても気持ちのいい体験ですよね。
そして「書く」という行為も、僕はそれと全く同じことだと思っています。
書きながら自己対話することで、今まで自分の中にはなかった新たな視点が得られる、今日はそんなお話を少しだけ。
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最近、こんな記事を書きました。
https://wasei.salon/blogs/925d10ea3a3f
その記事を書いた後に、こんなツイートもしています。
https://twitter.com/hirofumi21/status/1333396246657003521?s=20
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「なかなか考えをまとめる時間が取れない。だから、私もブログを書きたいと思っているんです。」
ブログを長く続けていると、頻繁に耳にする言葉です。
個人的には、このセリフは半分正解で半分間違いだと思っています。
その理由は、ブログを書くことで「考えたこと」をまとめているわけではないからです。
むしろ、「考える」そのもののために書いている。
これは微細な違いですが、とても重要な違いだと感じています。
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きっと、前述のように語るひとは、日々の業務におけるパワポをつくる作業や、事業計画書をつくる作業などと同列に考えて、既に自分の頭の中にあるものを書き出す「作業」だと思っているのでしょう。
そうであれば、自分の中で優先順位低く、後回しにされても当然です。
自分にとって重要なものではなく、他者に自己を提示する際に重要なものですからね。
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でも本当は、自分の考えそのものがどんどん変化していく行為、それが書くという行為なのです。
さらに、ブログ(書く行為)は他者との対話とは異なり、いくら書いたり消したりを繰り返しても構わない。
筆が進まなくなって悩んでしまったら、日々集めた膨大なメモを振り返ることで、いつか役に立つかもしれないと思って何気なく拾っておいた「言葉」が、突然役に立つ瞬間も現れる。
昨日の記事でいえば、嵐の櫻井翔さんの言葉がまさにそれです。
https://wasei.salon/blogs/a821f8047e31
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そうやって書き進めていくうちに、自分の中に未知の発想があることを発見し、自分自身が驚いてしまう。
だからこそ僕は、書くという行為が他者との対話と同じか、それ以上に新たな発見を獲得させてくれる行為だと思っています。
そしてこの話は、「書く」以外にも何かしらの表現活動をしているひとは、きっと強く賛同してもらえる話ではないかと想像します。
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つまり、まとめる時間がないから、あなたの考えがまとまらないのではありません。
最初に書き始めないから、いつまで経ってもまとまらず、その書くという行為を行おうとする意欲も湧いてこないのです。
もし書く行為が、パワポや事業計画書をつくる作業と同様の行為だとしたら、それは完全に罰ゲームです、僕も絶対にやりたくありません。
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しかし、自分という他人から新たな視点や発想を得られる行為だから、毎日なんとか続いている。
そして、このように日々書き続けていると、自分の意志なんてものはそもそも最初から存在しなくて、常に媒介として生きているのが人間の本質なのだなあと、まざまざと思い知らされます。
昔のひとはそれを「天啓」と呼んだのかもしれません。
いつもこのブログを読んでいるひとにとっても、今日のお話が何かしらの参考になったら幸いです。