最近、AIとやり取りをしていて、妙に引っかかる瞬間があります。
返ってくる答えは、たしかによくできている。論点も整理されているし、言葉にも配慮がある。いまの時代に求められている「ちゃんとした答え」のすべてがそこに詰め込まれていて、かなり優秀な部類だと思います。
でも、その「かなり優秀だ」という感じのなかに、ときどき妙な寂しさみたいな感情が入り混じるんですよね。
あとに残るのは、すっきり感だけじゃない。むしろ少し自分自身が薄まっていくような感覚があるなあと。
これはまだあまりうまく言えないのですが、「納得感が高いこと」と「自分の腹に落ちること」は、どうも同じではないらしいということ。
最近は、そんなことを何度も繰り返し考えてしまいます。
というか、AIが出てきたことによって、この二つの違いが以前よりもずっとはっきり見えるようになったということだと思う。まさに訂正可能性、みたいな話にも近いです。
ーーー
新しいGPT5.4のモデルなんて、本当にすごい。ただただ、感動する。
仕事に限らず、生活も暮らしも、人間関係でさえも、もはやその道の一流の人からのコンサルやアドバイスと大差ない。
むしろ、自分のコンテキストをすべて理解してくれている分、もはや最高のパートナーと言っても過言ではないと思います。
もちろん、それ自体はありがたいことなんです。
昔だったら何日も悩んでいたことが、今ではかなり短い時間で整理できるわけですから。
僕自身も日々その恩恵をたくさん受けまくっている自覚がある。
でも、その便利さのなかで、何か人間にとって大事な時間まで一緒に削られているんじゃないかと思ってしまう。今日いちばん書きたいのは、まさにそのことです。
ーーー
じゃあ、それは一体何なのか。
それは、きっと迷う時間です。もっと言えば、「ぶつかる時間」なのだと思うのです。
人間って本来、そんなにスマートな生き物じゃないと思うんですよね。
欲しいものがある、手に入らないものがある、どうにもならない相手がいる。諦めたほうがいいと頭では分かっているのに、なかなかそうはできないと、自らに苦しむ。
遠回りだと知りながらも、そっちの苦しい方向へ足が向かってしまう。ぶつかる方向へと、ダメだ、ダメだと思いながらも行ってしまうわけですよね。
ただ、そういう、ちょっとどころか、かなり見苦しい時間を通ってこそ、ようやく「まあ、仕方ないよな」と思えるようになるのだと思います。
そして、たぶん本当の諦めとか受容とか成熟みたいなものって、そっちなんですよね、きっと。
そういう順番の先にしか来ないものが、たしかにあるとほんとうに強く思います。
ーーー
ここで言いたいことは、決して欲望を礼賛したいわけではありません。
そこはくれぐれも誤解しないで欲しいです。
「欲望に従って生きよう」とか、「理性より本能が大事だ」とか、そういう雑な話にしたいわけでもない。むしろその逆です。
欲望って、かなり厄介なもの。人を振り回すし、判断も曇らせるし、みっともない姿もたくさん生み出してしまう、悪魔みたいなものです。
でも、それでも思うんです。
その面倒なものを、最初からきれいサッパリ切ってしまうと、人はどこにもぶつからなくなってしまう。
どこにもぶつからないまま得た「諦め」は、ほんとうの意味での諦めなんだろうか、と。
ーーー
たとえば、最初から「そんなの無理だからやめておこう」と賢く振る舞う人がいる。
あるいは、未来の理想の姿がすでに明確なんだから、一足飛びにそちらへ向かおうとする人がいる。
それは一見すると、非常に大人です。分別があるし、空気も読める態度に違いない。それゆえに、損切りも早いわけですよね。現代社会ではかなり高く評価される態度だと思います。
でも、ときどき、その「賢さ」に少しだけ寒気を感じることがある。
もちろん、なんでも体当たりすればいいわけではないことは、言わずもがなです。
傷つけば偉いわけでもないし、失敗すれば必ず深くなるわけでもない。ただ、それでもなお、人間には「一度ぶつかってみないと、絶対に分からないこと」があると僕は言い切りたい。
やってみて、ダメだった。手を伸ばしてみたけれど、思ったほどではなかった。欲しかったはずなのに、手に入れてみたら全然違った。あるいは、どうしても手に入らなくて、そこでようやく自分の限界や相手の事情や世界の固さみたいなものに触れる瞬間。
そのときにやってくる本当の「仕方なさ」というは、最初から知っていた「正しさ」とは少し違うと思うんですよね。
ーーー
それは、頭で理解した諦めではなくて、身体を通った諦めに近い。仏教的な意味での「あきらかに見る」としての「諦め」にも、どこか通じている気がします。
もっと身体感覚に寄せて言えば「身にしみて理解できた」という感じです。だからこそ「なるようになった」とも腹の底から肯定できるようにもなる。
人間の成熟って、たぶんこっちなんじゃないかと思います。そして、この経由こそが大事なんじゃないかと思うのです。
「きれいごと」をたくさん知っていることではなくて、欲望や失敗や未練や恥を、ある程度ちゃんと通ったうえで、それでもなお落ち着いていられること。
ーーー
だから僕は、ときどき「最適化された人」や「最適化された会社・社会・政治」を見ていて、少し違和感を覚えてしまう。
そこには一切、無駄がないからです。感情に振り回されてぶつかった形跡もない。常に未来のあるべき姿から逆算的に考えて、合理的に判断し、粛々と前に進む。
それはたしかに、現代的な強さに間違いない。まさに「チームみらい」的な強さ、と言ってもいいのかもしれません。
「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」と言いますが、いまは賢者が、歴史の失敗から学びすぎている節がある。愚者感が、あまりにもゼロなんですよね。
そして、もうお気づきだと思いますが、寅さんは、圧倒的にこれを引き受けてくれる。愚者感も、あれほどまでに突き通してくれると、本当にあっぱれです。
だからこそ最後に、「仕方ない」とカラッと突き抜けるような青空みたいな爽快感を残してくれるんだと思います。
ーーー
ちゃんと欲望を通ったあとの静かな受容なのか。それとも、最初から欲しがる力を失ってしまっただけなのか。
この違いは、外から見ただけではなかなか分からない。
けれど、本人のなかでは決定的に異なるはずです。誰に言われるまでもなく、ほんとうはちゃんと自分自身がいちばん分かっている。
分かっていないフリをしているだけなんですよね。
ーーー
そして、AIの時代は、この「先回りしてスパッと切ってしまう力」をものすごく強く加速させていくと思うんです。
悩む前に完ぺきな答えが出てしまうから。迷う前に完ぺきに比較できてしまうから。
仕事の効率も上がるし、失敗も減る。余計な摩擦も避けられる。
でも、だからこそ危ない。
結局のところ、今、世の中から急速に失われているのは、単なる非効率とか不便益だけではなく、「自分の感覚で納得するまでの時間そのもの」なんじゃないかと思うのです。
ーーー
人は、正しい答えを渡されただけでは、なかなか生きられない。
その答えがどれだけ合理的でも、どれだけ納得度が高くても、自分の身体を一度も通っていなければ、それはどこか他人の人生みたいになってしまう。
もちろん、全部を遠回りしろ!なんて言えません。そんな悠長なことを言っていられない現実も、間違いなくある。
仕事には締切があるし、生活にはコストがかかり続けるし、子育てや介護や経営の現場では、のんびり迷ってばかりもいられない。意思決定の連続こそが人生です。不可逆であることこそが人生です。
だからこそ、なおさら思うのは、僕たちは、何を効率化して、何を効率化しないで残すのか。
どの衝突は省いてもよくて、どの迷いはちゃんと残しておくべきなのか。
これからの時代に必要なのは、この判断と峻別、そしてそこからやってくる失敗の経験を通した「諦め」だと思います。
欲望を肯定することではない、理性だけを称えるわけでもない。
そうではなくて、ぶつかり、迷い、遠回りした末にしか出てこない受容のプロセスをどう守り抜いていくのか。
ーーー
受容とか諦めとか悟りみたいなものを、僕らはつい、キレイなものとして語ってしまいがちだけれども、でも本当は、もっともっと泥くさいものなんじゃないのかなと。
もっと傷があるし、もっと失敗の匂いがするもの。
でも、それらがあるからこそ、そのうえで最後に、ようやく「ああ、まあ、そうだよね」と静かに言えるようになる。
その順番をすっ飛ばしてしまうと、何か大事なものを失ってしまう。
人がちゃんと迷い、ちゃんとぶつかり、ちゃんと納得するまでの時間を賭けられる空間を、しっかりと守り通していきたいなあと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2026/03/09 15:26
