昨日、3月9日に、キリンビールの「晴れ風ACTION」とTHE FIRST TAKEとレミオロメンの「3月9日」が重なった企画をネット上で見かけました。


見た瞬間、思わず「素晴らしい詰将棋みたいだ」と思いました。

これは決して悪口ではなく、むしろ逆で、よくここまできれいに揃えたな、と素直に感心した。

歌の「3月9日」に、桜やお酒など、今の季節に大事なキーワードが全部揃っている。そしてさらに、「THE FIRST TAKE」という、いまの時代にちゃんと届く「器」まで間借りしている。

しかも、ただ話題になるだけではなく、その動画の再生回数に応じて寄付が行われる仕組みまで、おまけでついているわけです。つまり、桜を守るという社会的な意義まで、きちんと通っている。

ほんとうに、あっぱれだと思いました。

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よくできているし、良いことでもある。社会的にもちゃんと意味がある。こういう企画を組める人たちは、ほんとうにすごいな、と素直に思う。

でも、その「すごいなあ」のすぐ隣で、別の感覚も立ち上がっていた感覚がありました。なんだろう、この、少しだけ息が詰まる感じは、と。

なんというか、うますぎるんです、すべてが。きれいすぎると言ってもいいかもしれない。あまりにも全部が、あるべき場所に収まりすぎている感覚。

卒業の季節に「3月9日」。桜を守る寄付や春の情緒。ノスタルジーと共に、善意や共感。拡散される設計と、そのときについて回る企業イメージまで計算されている。

全部がきれいに一列に並んでいます。しかも、その並び方にもまったく無理がない。

だからこそ感心する。でも同時に、少しだけ逃げ場がない感じもしてしまう。

そのときに、ふと「ああ、これってAIっぽいんだな」と思いました。

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もちろん、ここで言っているのは「AIが作った企画なんじゃないか」みたいな穿った見方ではないです。そんなことは担当者しか知らないし、たぶん今日の話の本質でもない。

いま僕が気になっているのは、実際にAIが使われたかどうかではなくて、AIで考えたみたいに見えてしまう、その独特の「手触り」のほうです。

必要な条件を全部満たしているし、意味も通っている。倫理的にもまったく問題がない。しかもバズにもなりやすい。

つまり、「欲しい条件を全部入れたら、もっとも美しく出てきた最適解」みたいに見えた、ということなんでしょうね。

最近、ぼくらが何かを見て「AIっぽい」と感じるとき、その感覚の中身は案外ここにあるのかもしれないな、と。

文章でもそうだし、画像や動画でもそうだし、企画でもそうだと思います。

ちゃんとしている。整いすぎている。その結果、少しだけ人間の手触りのようなものが薄くなる。

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これって、すごくやっかいな話だと思います。

なぜなら、別に雑ならいいわけじゃないからです。不器用なら正義、という話でももちろんない。このキリンビールの企画だって、実際に意味があるし、良いことをしている。だからこそ、単純に批判なんて絶対にしたくない。

むしろ僕がここで気になっているのは、良いことだし、ちゃんとしているし、ちゃんと人の心も動かす。なのに、それでもなお、ほんの少し引っかかるという実感のほう。

その引っかかりを考えていたとき、なぜか最近ひさしぶりに読み返した、俵万智の歌のことを思い出した。

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青春という字を書いて横線の多いことのみなぜか気になる


若いころにも何度か見ていたはずなのに、最近ふれたとき、急に、この歌の「のみ」が刺さってきたのです。

こんなにすごい「のみ」の使い方ってあるんだろうか、と。

だって「のみ」って、ふつうは世界を狭める言葉じゃないですか。「ここだけです、それだけです」と限定する言葉であるはず。

なのに、この歌の「のみ」は、読めば読むほど、逆の意味なんですよね。

横線の多いこと「のみ」が気になる、と言っているはずなのに、実際にこちらの中で起きることは、まったく逆なわけです。

限定されるどころか、その一点のまわりから、青春全体がブワッと立ち上がってきてしまう。

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教室の空気とか、ノートの紙のざらつきとか。意味もなく漢字を書いてみている退屈な時間とか。好きとも言えないし、好きじゃないとも言えない、あの中途半端で、やけに濃い感情とか。

つまりこの歌は、青春を説明していないんです。むしろ、青春をうまく説明できない感じそのものを、歌の中心に置いているわけですよね。

青春って、真正面から「青春だ!」と言い切ってしまうと、死んでしまうところもあるじゃないですか。まぶしい、と言いすぎると安っぽくなるし、切ない、と言いすぎると記号的になりすぎる。ポカリのCMとか、カロリーメイトのCMとかみたいになる。(どちらも大塚製薬)

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でも実際の青春って、そんなにうまく言えないですよね。渦中にいるときには、もっとどうでもよさそうな細部に気を取られてしまう。そのずれ方そのものが、たぶん青春の正体だったんだと思います。

だからこの一首は、青春を足し算で描いていない。説明も、感情も、情景も、親切に全部を並べない。むしろ、ひとつの細部だけをそっと置く。

すると読む側の身体のなかで、勝手に残りの全部が動き出す。これが本当にすごい。

全部を引いているのに、逆に増えている。言わないことで、むしろ届いてしまう。

そして思うんです。「ああ、人間の言葉とか文化って、本来こういうふうにもできていたよな」と。

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つまり、AIや現代のマーケティング手法のように、足して足して足して完成度を上げていくのとは別の立ち上がり方があった。

説明を加え、条件を満たし、文脈を束ね、意味を積み上げて強化するのではなく、むしろ引く。少しずらす。そのことで、読む側の身体や記憶や感情が参加できる余白が生まれる。

この感じは、以前もご紹介した、藤原定家の「花も紅葉もなかりけり」にもかなり似ているなと思います。むしろ、ほとんど同じです。


あの歌も、「あるもの」で押してこない。むしろ、「ない」と言う。花もない、紅葉もない、と、季節の見どころをいったん引いてしまう。

でも、だからこそ逆に、その場の気配がブワッと濃くなる。見せ場を削ることで、景色の呼吸そのものが聞こえてくる気がしてくる。

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定家も俵万智も、ただ削っているわけではないんですよね。削ることで、読む側が入ってこられる余地をつくっている。

説明を限りなく減らすことで、受け手のなかにある記憶や身体感覚のほうが動き出すように、丁寧に仕向けている。

この「読者の側に立ち上がらせる」という運動は、足し算で強化していく企画や文章とは、かなり対照的だと思います。

で、僕はこういう言葉の働きが本当に好きなんです。

そして同時に、いまこのAI時代に、こういう言葉の価値は、むしろ高まっていくんじゃないかと思う。

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AIは本当に優秀です。説明もできるし、要約もできるし、整理もできる。企画だって、きっとこれからますますうまくなっていくでしょう。どんどん洗練されていくことは間違いない。

でも、だからこそ逆に思うんですよね。人間の仕事って、そこだけじゃなかったよな、と。

言葉は本来、もっと寄り道をするし、もっとためらう。もっともっと、うまく言えなさを抱えたまま進む。そして、そのうまく言えなさのところにこそ、その人の身体とか、その人が生きてきた時間とか、その人が誰と一緒にいたのか、みたいなものがすべてジワッと滲み出すんだと思います。汚いものや見たくないものも全部含めて、です。

たぶん、いま人が「AI臭い」と感じているのは、AIそのものへの拒絶ではないはずで、もっと正確に言えば、最適化されすぎた文化への違和感なんだと思います。

善意まで最適化される。ノスタルジーまで最適化される。そうやって何もかもが、きれいに届くように整えられていくことへの違和感。

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寄付だって、善意100パーセントではたぶんない。見栄もあるし、自己満足もある。でも、そういう混ざりもの込みで、人間の感情だったんだと、AIが出てきた今、改めて強く思います。

だからこそ、最初から最後まで美しすぎるものを前にすると、身体のどこかが少しだけ違和感を感じて、こわばるんでしょうね。そのこわばりは、たぶん軽視しないほうがいい。

しかも僕は、このこわばりは単なる懐古趣味とか、平成の古い感覚ではないと思っています。むしろ逆で、これからの時代にこそ大事になってくる感受性なんじゃないか、とさえ思います。

なぜなら、この先の社会では、うまくできたもの、正しく届くものが、ますます増えていくからです。AIによって、それはもっと自然に、そして高速に大量に供給されるようになる。

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そのとき必要になるのは、完成度の高さにただ感心する能力だけではない。

その完成度のなかで、何が削ぎ落とされ、何が置き去りにされ、どこで人の気配が薄くなっているのかを、敏感に感じ取る力のほうだと思う。

つまり、少しだけ身構えてしまうことは、時代に取り残された感性ではなく、むしろAIによって極限まで最適化が進んでいく時代のなかで、人間らしさを見失わないための、かなり前衛的な感覚なのかもしれないのだ、と。

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Wasei Salonで大事にしたい感覚も、まさにここなんです。

すぐに要約されない違和感が、そのまま残っていても大丈夫な場所。最適化された会話ではなくて、少し不格好でも、その人の体温が残るような対話こそを大切にしたい。

たぶん僕らが本当に求めているのは、こっちであり、そういう場だと思うからです。

「あの俵万智の『のみ』、すごいよね」と言い合えること、たったそれだけで、1時間対話できてしまうような時間こそ大事にしたい。

そういう時間のことを、僕はわりと本気で「これからの豊かさ」だと信じている。

そして、そういう豊かさをちゃんと守れる場を、これからも淡々とつくっていきたいなあと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。