先日のAppleの新しいMacBook群の発表を眺めながら、ふと思ったのは、「ああ、スマホだけで完結する時代って終わりつつあるんだな」と。

もちろん、連絡を取るとか、SNSを見るとか、動画を見るとか、そういうことだけなら、今でもスマホで十分です。

十分どころか、足りすぎるくらい足りている。実際、ここ数年は「PCなんてもうそんなにいらないよね」という空気も、たしかにあったと思います。

でも、AIが生活の真ん中に入り始めた途端に、その風景が少し変わってきた。

またPCの時代なんだと思います。

廉価版のMacBook Neoは、間違いなくその布石です。

とはいえ、ここで戻ってきているPCは、昔みたいに「人間が自分の手で作業するための道具」として帰ってきているわけじゃない。もっと変なかたちで戻ってきている気がするんですよね。

PCの主人は、もはやAIであり。人間は、そこに間借りさせてもらう側に成り下がった。

少なくとも最近の自分は、その感覚のほうがむしろ正確なんじゃないかと思うようになってきました。

今日はそんなお話になります。

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この点、僕は今回はバッテリーのことも含めて、かなり久しぶりにMacBookAirから、MacBook Proにしようかなと考えています。

なぜなら、自分のために高性能なPCを買うというより、AIが気持ちよく働ける場所をちゃんと用意しようと思うから。もう判断基準が180度変わってしまった。

自分だけだったら、airでもまったく問題ないけれど、AIがここから3年以上このPCの中で働いてくれるのであれば、そのために適切な「オフィス」を用意するのは当然だよなあと。

そして、そのAIの家に、自分も間借りして一緒に住まわせてもらう。まさにそんな感覚です。

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このMacBookはAIのための家で、人間はその片隅を借りて暮らす状況、まるで『借りぐらしのアリエッティ』みたいだなと思っています。

しかも、この「借りぐらし」という感覚は、ちょうど松岡正剛さんの本『擬 MODOKI』を読んでいたら出てきた話でもある。

ナタリー・サルトゥーラジュの「借りの哲学」という本が紹介されていて、そこでかなりハッとさせられました。

人間はそもそも、誰にも何も借りずに生きているわけではない。住む場所も、言葉も、習慣も、仕事の型も、誰かから受け取ったものの上で、やっと成り立っている。

彼女は、人は「他者からの借りで生きている」と考えたうえで、その「借り」は同時に「仮り」でもある、と語るそうです。

つまり、完全に自前の人生なんてものは最初からなくて、われわれは借り受けたもので、とりあえずこの生を運営しているわけです。

この話を読んだとき、アリエッティって、小人の物語であるだけじゃなくて、じつは人間そのものの話なのだと僕は思いました。

松岡正剛は、借りることは劣っていることでも、恥ずかしいことでもない。むしろ、生きることそれ自体が、すでに借りぐらしなんじゃないか、と語ります。

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そう考えると、いま僕らがAIに対して感じている妙な感覚なんかも、少しは言い表しやすくなる気がするのです。

そして、だからこそ、借りている自覚のない人間が、もしかしたらこれからはいちばん危ういのかもしれない。

自分ひとりの力で立っているつもりになった瞬間に、受け取ってきたものへの感謝も、返していくべき責任も見えなくなってしまうわけですからです。

AIを使っているというより、AIという新しい環境に住まわせてもらっている感覚が、ほんとうに強くなる。

AIから能力を借り、記憶を借り、整理の仕方を借り、場合によっては言葉の出発点まで借りている。

もちろん、だから全部委ねていいわけでもない。それは言わずもがなです。

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けれど少なくとも、これまでの「ツールを使いこなす主体としての人間」という図式だけでは、もう捉えきれないところまで来ているんだと思います。

で、問いが変わると、道具の意味も変わってしまうという話がしたい。

「自分にとって使いやすいか?」ではなくて、「どうやって整えれば、このAIにいちばんうまく働いてもらえるんだろう?」という問いのほうが中心にやってくるというわけです。

自分のためなんだけれど、自分のためだけじゃない。自分が使うんだけれど、自分だけが使うわけでもない。

このズレが、いかにも現代的だなと思います。まさにデジタルネイチャーの世界線。

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で、最近僕は、夢の中でもAIを使っている夢を頻繁に見るようになりました。

「一体どんな指示を与えれば、AIがもう少し自分の意図に近い動きをしてくれるのか?」そんなことを夢の中でまで試している。我ながら頭おかしいだろと思うし、同時に少し怖くもある。

でも、この感じ、何かに似ているなと思ったら、中国語を勉強していた時期の感覚にかなり近いんですよね。

新しい語順、新しいニュアンス、新しい作法。頭で理解して終わりではなく、身体がじわじわその言語に馴染んでいく感じがしています。

そう考えると、AIって単なるツールというより、かなり言語に近い気がしていて。まさに言語ゲームだと思います。ウィトゲンシュタインの「石工の喩え」なんてまさに、です。

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つまり、AIを使うというのは、「便利なアプリを導入する」という話ではなくて、新しい国に留学して、その国の言葉や礼儀や癖を覚えていくことに近い。

だから、学び方も非常によく似てくる。

変な話ですが、新しい言語を学んでいるときって、学習時間そのもの以上に、睡眠が大事だったりするわけですよね。寝ているあいだに脳のどこかで整理が進んで、起きたら少しだけ馴染んでいるような形で。

夢の中でまでAIと格闘しているというのはたぶん、脳が必死にデフラグしている証拠なんだろうなと思います。

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また最近、久しぶりに音声入力をしっかり使ってみて、これにも驚きました。

以前は少しの引っかかりや認識のズレが地味にストレスで、なんとなく距離を置いていたんですが、久しぶりに触ってみたら、その細かな違和感が驚くほどに消えていた。

メジャーアップデートされたというわけではないのに、「あ、以前のストレスが無くなるところまで改善されたんだ」という細かな変更が身体感覚で感じ取れた。

しかも、その音声入力を受け取るAI側も強くなっているわけです。

多少ラフに話してみても、かなり過不足なく拾ってくれるし、ときにはこちらの行間まで察してくれる。この組み合わせは、本当に快適になっているなと実感します。

このように、少し前までは「まだちょっと早いかな」と思っていたものが、気づけば生活の手触りそのものを変える実用品になっている。

そういう瞬間が、いま確実に増えていると思う。

だから、AIシフトはもう避けられないし、Claude CodeのようなAIエージェントが一般化してくれば、余計にここは加速していくことも間違いない。

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ただ、やっぱりここで話を単純化したくないんですよね。

便利だから全部受け入れればいい、ではないし、怖いから全部拒否すればいい、でもない。たぶんこの先、AI疲れも同時にさらに加速していくと思います。

しかも、その疲れはSNS疲れなんかより、もっと深いものになるはずです。SNSは閉じようと思えば閉じられたけれど、AIはもっと深いところまで入ってくる。

思考、判断、仕事、会話、そういうものの内側にまで入り込んでくるからです。

だからこそ大事なのは、AIに居場所を献上しつつ、その恩恵もしっかりと受けつつ、それでもなお自分らしく生きるにはどうしたらいいのか、その問いを絶対に手放さないことだと思うのです。

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効率のために全部任せるのでもない。人間らしさを守りたいがために、全部拒絶するのでもない。

そのあいだが大事で、AIへの違和感は違和感のまま持ち続けること。とはいえ、すぐに判断しない、決断しない。わからない問いは、わからないままに置いておく。

少なくとも、僕はその終わらない変化の過程のなかにこそ、人間の仕事が残るんじゃないかと思っています。

「これが人間の仕事だ!」と断定的に決まるわけじゃなくて、ずっと変化し、その主体がズレ続けるイメージ。「移動する相の中」にしか人間の仕事は、ほんとうの意味で立ちあらわれてきてはくれないんだろうなあって。

しかも、その「人間らしさ」というのは、単なる精神論ではないはずです。そういう非効率や揺らぎや体温のほうに、実は大事なものが残りそう。

AIはきれいな答えを返してくれる。けれど、どこかで僕らが本当に欲しているのは、完成品そのものではなくて、そこに至る過程を誰かと共有した実感なんだというのは、先日も書いたとおりです。

これからはそれがずっと変化し続ける。これまでも変化していたのだけれど、比較的に緩やかだったものが、もっともっとスピードが早くズレていくということだと思います。

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だからWasei Salonという場も、そういう感覚がキャッチアップができる場でありたい。でも決して、何か自分の中で完全に割り切ってAI時代に適用しすぎるわけでもなく、なんです。

AIに疲れている人ほど、Wasei Salonに来て欲しいなあと思います。

とはいえ、だからといって文明を捨ててローカルに移住しましょう、みたいな話を提案するわけでもない。

AIシフトは決して諦めない。便利さも捨てない。けれど、違和感や問いも絶対に手放さない。

まさに、借りぐらしする者同士がそうやって集って、悩みや葛藤を共有できるようなコミュニティになっていったらいいなあと思っています。

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繰り返しますが、これからは、AIのための家を買うような時代。そして、そこに人間が間借りするような時代になる。

この感覚をおもしろがりながらも、でも同時に、どこかで「ほんとうにそれだけでいいんだっけ?」と問い続けること。

その問いを一人で抱え込まず、誰かと持ち寄って、議論や対話ができる場所をつくっていきたいなあと思っています。

そういうことのほうが、これからはますます大事になっていくという確信が日々強くなっています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。