生活に飽きている。

と思っていたら、なんだかんで、今いるピソ(シェアハウス)を解約して、来月からまた家を持たない暮らしをすることになった。またもや、生活が目まぐるしく変わっていく。今年は最後まで想定外だったなぁ。

飽きながらも続けていることがいくつかあって、「雑記を書く」という試みをちょうど1年ぐらい前から毎日続けてきた。

それ以前からも、メモのような短い言葉の羅列を毎日書きつけていた。手書きはハマらなかったので、最初はEvernoteに、今はNotionに。

それらは何なのか、自身でもわからなかった。誰かに見せるわけでもなく、書いているという認識すらない言葉たちであった。でも、書き残さずにはいられなかった。とにかく、思いついたことや感じたこと、身の回りの現象などを書いておく。見返すことはあまりなかったが、とにかくそういった記録が積み重なっていった。

記録をするということは、記録しなかったことが存在しないわけでも、記録することで全てを記せていると思い込むことでもない。それでも、できるだけ記録をしてみたくなる。そこに意味などは求めないけど、やらずにいられなかったということは、きっと自分の中で必要なことだったのだと思う。

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シモーヌ・ヴェイユという、フランスの哲学者がいる。ある日、彼女の「重力と恩寵」という本をたまたま知った。読んでみると、そこに記されていた様々な思索の記録は、ぶつ切りであるようでいて、実はどの文章も深い部分で連動しているような、空間の広がりを感じるものであった。

彼女の思想は「雑記帳(カイエ)」と呼ばれる複数のノートに書き綴られていて、死後それらをまとめて1冊の本にしたのが、「重力と恩寵」だったようだ。

箇条書きの文章で構成されたその本の言葉は、なんだか既視感があり、思い返してみれば、自分がいつも書いている、メモのような文章の形式と似ているような気がした。

長くまとまった文章を書くことを、「書くこと」だと無意識に思い込んでいたところがあった。確かに、まとまった言葉によって伝わることは多いのだと思う。だけど、こういった些細な記録は、些細だからといって無下できるものでもない。むしろ、そういった断片的な言葉をもっと大事にしたい。この本を読んでから、そう思うようになった。この本は、自分が書いてきた文章を掬いあげてくれたようだった。

だからこそ、日記のような形式としてまとめあげ、これらの言葉を「雑記」と呼び、なんなら「雑記帳(カイエ)」と名前を拝借して、公開していくようにした。その試みが続いて、ちょうど1年ぐらい経ったのだった。

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「雑記」という名前をつけて、日々書き留めるようになると、自身にとっての書くこと全般が、果たしてどういった行為であるのか、その輪郭がじんわりと浮かび上がってくるようであった。

おそらく、誰にも見せないままでも、雑記は存在し続けた。見せないことが存在しないことだとは思えなくて、実際に、公開している箇所には載せず、でも確かに書きつけた雑記というものは、無数に存在している。

でも、だからこそ、人と共にあるためにも、誰かに読まれる可能性がある場所に置いてみたくなったのだろう。書くという行為こそ、開いていきたかったのかもしれない。

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誰かのために書くということは、自分に限ってはほとんどないのだと思うが、だからといって、自分だけのために書いているというわけではないのだと思う。確かに、自分と目の前の人との淡いに、ぽつりと置く、そのような感覚だったりする。そういう書き方をするようになってからは、書き始めてみないと、自分でどんなことを書くのかわからないし、そういうわからなさが、書いていて楽しかったりしている。

たとえば、芸人のトークや面白い書き手のエッセイなどを見ていると、よくもまあ日常にそんなヘンテコなことが起こるもんだと思っていた。だけど、実は、誰しも日常にはあらゆることが巻き起こっていて、それらを忘れてしまっているだけなのだと思った。それは、いつもおもしろいなぁと思っていた、くどうれいんさんの文章の書き方を知って思ったことだった。

エスカレーターでPC片手にサッカーを見ている人がいた。サンタ帽を被っているのに、誰よりも足早にポケットに手を突っ込んでずいずい進んでいる人を見た。カップルが喧嘩していた。「私、石川さんの金づるなの」って会話が聞こえた。大切な人がぶっきらぼうに「達者でな」と言った。こんな感じの何でもないことをなるべく書いたりしている。たまに何してるんだろうと思うけど、でもなんだか笑えたり、ああどうしようもなく楽しいなって思えたりする。

書くことは、自分をどこまで運んでしまうのだろうと思う。どうしようもなく思えることも、書いてみることで、自身と剥がれて、また観察できるものになったりする。わからなさを知っていくためにも、また懲りずに書いていくのかもしれない。

こんな感じで「雑記を書くこと」を続けてきたので、ZINEとしてまとめてみたい。だけども、何度聞いたり調べたりしても、いまいち作り方の実感が掴めない。写真も載せたいので、構成も悩ましい。どのように作ってみようか。もしZINEを作ったことがある方がいたら、お話聞かせていただきたいです〜

恐れは想定外に陥ったとき、自身の素直さを覆い隠そうとする。だけど、いつだって、ままならないまま、時間は流れ、はたらき、ぐるりと旋回するように生きていく。人々は螺旋のような軌跡を辿る。孤独も同じではないか。孤独という螺旋を巡って生まれた言葉は、剥がれ落ちるように書きつけることで、恐れや人々と共存していく道を紡いでいくのだと思う。「ままならず螺旋する」は、はたらくことと書くことを繋げる自身の試みであり、恐れや人々と共に生きていくための探求の記録である。


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Lomographyのフィルムとの相性悪いんかなぁ〜と思ってたら、最近現像した写真の仕上がりが思いがけず良くて、嬉しかった。予測して撮る技術をフィルムでも持ちたいと思いつつ、想定できない楽しさをフィルムに見出している気がする。