最近よく思うことなのですが、いわゆる「親ガチャ」の話って、今がまさにもう親ガチャがほとんど関係ない時代だからこそ、これほどまでに流通している言葉のような気がしています。

歴史を勉強していると、今なんかとは比べ物にならないぐらい圧倒的な親ガチャの時代が存在していて、それこそ、生まれた家で一生の職業が決まってしまっていたわけで。

それに比べたら、今は親ガチャなんかはないに等しいほどに感じられるし、自分の打ち込み方次第で、どうにでもなる世の中でもある。

でも、多くの人は、そのやる気やモチベーションがまったく続かないわけですよね。その最たる言い訳みたいなものが、親ガチャになっているようにも感じます。

親の段階でハズレているから、私は努力をしても仕方ないという諦めというか、生まれながらにして「同じ」であるべきなのに、最初から圧倒的に差がついていて、自分が努力をしないことを棚上げにできる、そんな便利な言い訳が「親ガチャ」という言葉である側面も間違いなくある。

それが多くの人にとって都合良かった言説だったため、ここまで広く世の中に行き届かせたんだと思います。

まだまだ、うまく言語化できている感じはしないし、これが自己責任論の最たる例だと言われることも一方でわかっているけれど、最近はそんなことをよく考えています。

(ここまでの話は以前、サロンのつぶやきの中でも書いたことです。)

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で、そんなことをモヤモヤと考えていたときに、ちょうど宇野重規さんの『実験の民主主義    トクヴィルの思想からデジタル、ファンダムへ』という本を読んでいて、そこにとても膝を打つような話が書かれてありました。

それが、『アメリカのデモクラシー』を書いたアレクシ・ド・トクヴィルの「平等化」の趨勢の話です。

これが、ものすごくおもしろかった。

宇野さんは、小説家であるカズオ・イシグロが書いた『日の名残り』という有名な小説の主人公を例に出しながら、現代社会で起きている「平等化」について深く考察していきます。

以下で早速、本書から少し引用してみたいと思います。

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『日の名残り』の主人公は、貴族出の名家に仕えてきた執事です。召使いではあっても、ものすごく誇りが高い。位の高い人に仕えている自分に誇りを持ち、かつ、自分が仕えている相手は自分とは明らかに違う種類の人間だと思っています。明白な差別があるにもかかわらず、そのことをおかしいとは決して思いませんし、むしろそうした階級差があることで、仕えている自分の誇りや 矜持 が保たれています。
(中略)
ところが、その執事がいったん「あれ、この人は自分と同じ人間ではないか。なぜそんな人の言いなりにならなければならないのか」と思い始めてしまうと、もはやそれまでのように奉仕することはできなくなってしまいます。なぜ自分が主人に仕えなければならないのか、考えてしまうからです。

トクヴィルが語る「平等化」は、まさにそうした作用のことを指しています。つまり、同じ人間だということにあるときに気づいてしまうと、後戻りができなくなってしまうわけです。かつてもっと大きな格差があった頃には誰も文句を言わなかったのに、人間の平等の観念が広まっていくと、過去と比べて格差が相対的に縮んでいたとしても、その小さな格差がむしろ耐えがたくなる。「同じ人間なのに、なんで違うんだ。その違いを正当化する根拠は何だ?」となるわけです。


これは本当におもしろいご指摘であり、冒頭の「親ガチャ」の内容にも見事に通じる話だなあと思いながら読みました。

特に、人間の平等の観念が広まっていくと、過去と比べて格差が相対的に縮んでいたとしても、その小さな格差がむしろ耐えがたくなるというのは、本当にそのとおりだなあと思います。

ここは、良し悪しの問題ではなく、人間というのは実際にそういうふうに感じる生き物であって、かつ、ここは後戻りできず不可逆でもあるということです。

さらに宇野さんは以下のように続けます。再び本書から引用してみたいと思います。

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現代の「正義」をめぐる議論も、基本的にこの流れにあります。そこでは個々人をめぐる境遇の違いのうち、どこまでが個人の責任の範疇で、どこからがそうでないのかが問題とされます。どこまでが許容できる「違い」で、どこからが許せない「違い」なのか。「みんな同じ」と思い始めると、小さな違いでもいちいち気になり、イライラしてしまう。かつてと比べれば、「違い」は相対化されていたとしても、むしろその小さな違いに敏感になってしまうわけです。 
(中略)
人と人の「違い」が可視化されず、それが意識にものぼらない時代が長くありました。ところが、いまや「あの人たちと自分のどこが違うのだ、なんであの人たちばかりがお金や権力を持っているのだ。ずるいではないか」と世界中の人が思うようになっています。トクヴィルの言う「平等化をめぐる想像力」の革命は、いまも世界的に進行していますし、さらに加速しているとさえ言えるのかもしれません。 


格差が意識にも登らない時代があったのに、むしろ、インターネットを通じて同じような人間が、(なんなら自分が差別的に見下している人間が)自分よりも良い思いをしていることに、世間の人々は耐えられないわけですよね。

でも、「平等化」したからといって、みんなが平和に幸せに暮らせるようになるわけではないと、宇野さんは書かれていましたが、ここも本当に重要な指摘だなと思います。

そして、以前も本田健さんの言葉を引用しながら書いたように、別に日本人だからと言う理由で、生まれながらにして「贅沢する権利」なんてないんです。本当は。


それが格差社会の嘘偽らざる「現実」だと思います。「平等化」の議論は一旦カッコに入れて、まずはそこを正しく見定めるところからだと、僕は思います。

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なぜなら、「平等化」のイデオロギーの中で、「ない」ものを「ある」と勝手に思わされていて、そこに一番苦しんでしまっているのが現代の若者だから。

言い換えると、本来はひとりひとり「違う」のに、それを「同じ」だと思わされている。もちろん、人間は平等で、そのひとりひとりの権利に「違い」なんてないんだという流れが、フランス革命や公民権運動などにもつながっていて、それが重要な発見であったことは間違いない。ここは、くれぐれも誤解しないでいただきたいです。

このあたりの話はNHKの「映像の世紀」の「ガンジーの志を継ぐ者たち」回が大変に素晴らしかったです。ぜひとも、合わせて観てみて欲しい番組です。


だから、僕は「平等化」の流れ自体を、否定しているわけでは全くない。

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ただし、いまはそんな「同じ」を主張する平等化のイデオロギーが、あまりにも強すぎる。

宇野さんがおっしゃるように、トクヴィルの言う「平等化をめぐる想像力」の革命は、いまも世界的に進行していますし、さらに加速してくることは間違いないかと思います。

それが、あまりにも現実と乖離しすぎると、今度は逆に、そのイデオロギーが個人を苦しめてしまうものとなっている。僕にはそんなふうに見えます。

昔は「違い」を解消することが圧倒的な善で、それ自体が幸福にダイレクトにつながることだったのかもしれないけれど、今はもうそうじゃない。

でも平等化のイデオロギーの勢いは止まらず、本来違うものでさえも「同じ」だと言われて逆に、苦しんでいる。それはそれで、また違う辛さや苦しさを助長しているなと。

何事においてもそうですが、きっと、この点においても「過ぎたるはなお及ばざるが如し」なのだと思います。

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そして、実際に世間を見回すと、多くのひと、特に若い人を中心に「違う」を「同じ」とする観念自体だけを持たされて、その現実とのギャップに喘いでいる。

なんで「同じ」じゃないんだ、と。なんであいつと俺(私)は何が違うんだ、と。

これは、基本的に戦後ずっと一貫して「同じ」を主張するイデオロギーのほうが優勢であって、学校教育でそれが絶対的な正義だと教え込まれてきたことも大きいのだと思います。

だからこそ、ぼくらはガンジーやキング牧師のような話が圧倒的な善であるように、今も信じて疑わないわけですよね。

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そして、そのイデオロギーが先にあるから、冒頭にも書いたように「親ガチャ」という論理にも自然と行き着くわけです。

ただ、その論理の帰結として、この世で唯一無二の自らの「生みの親」を憎むことにもつながってしまう。

そうやって、この世界で「かけがえのないもの」をことごとく恨むことになる。だって、かけがえのないものこそが、私と他のひとの「違い」を生む源泉なんだから。親(及びそこから受け継いでいる遺伝子)なんて、その際たる例だと思います。

でもそれを否定してしまったら、あなたがあなたである理由が一切なくなってしまう。それって果たして本当に幸せなことなのでしょうか。

ゆえに、世間の「平等化」の声に、ただただ漠然と流されてはいけないと思います。

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それよりも「なぜ今、自分はここにいるのか」と自らに問い、そこから自然と立ち現れてくる使命感のほうが、僕は圧倒的に大事だと思います。

何度も語るように、その意味のようなものを遡行的に発見することのほうが大切だと思う。

先日もお話したように、そのように現在から過去を発見する過程こそが、人間の為せる技だし、ここに真の意味での「生きる意味」のようなものが宿ると僕は思います。

その過程を通じて、自然と立ち現れてくるような責務や使命感のほうに従うこと。

それが、またガンジーたちの話にもつながっていく。本当の順序、その山の頂上への登り方というのは、きっとこっちがあるべき姿なんだろうなあと。

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今日の話は、誤解する読まれ方をされれば、間違いなく炎上しかねない内容です。でも、この真意が、みなさんにもちゃんと伝わっていれば幸いです。

繰り返しますが、すべての人間は平等です。それは圧倒的なリアルであり、真実。だからこそ、その前提として、まずは「違い」のほうから認めたい。

話はそこからだ、と思います。