この前、三浦希さんや中村さん、若月さんなど6人で飲んでいたときに、三浦さんがすごくおもしろい話をしてくれました。

「ここにいる5人は、ひとり10万円ずつ、僕に必ず貸してくれる」と。

何の話の流れだったか完全に忘れましたし、みんな馬鹿げた話だと笑っていましたが、僕はめちゃくちゃ本質的な話だなあと思いました。

というのも、僕はその借りられる金額と、今現在、銀行や証券会社の口座にある50万円という数字との違いとは一体何かを、真剣に考えてしまったからです。

どちらにおいても、もし死ぬまで一切の現金化をせずに、そのお金を一生使わなければ、どちらも本人にとってはほぼ同価値なわけですよね。

だとしたら、その瞬間に50万円という資産価値を見事に作り出してしまった。そんな三浦さんが本当にすごいなと。

なんだか狐につままれるような話ではあると思いつつ、僕はその瞬間に華麗なる錬金術を見た気がしました。

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で、この話をみんな冗談交じりの話だと思っていたので「絶対に貸さない」って笑いながら言っていたんですが、ただそこでおひとりだけ、

「実際、お金は貸せないけれど、その分の仕事は発注させてもらうかも」という話もあって、この切り返しに対しても僕はものすごく感動してしまいました。

なぜなら「信用」や「クレジット」の正体って、本来はつまりこういうことなのだと思うからです。

ここで、ほかでもない「お金」が発生している。

いいですか、ここはかなり重要なところだと思うので丁寧に書きたいと思うのですが、お金というのは労働を終えた対価として発生しているのではなく、ここで発生しているのが「お金」そのものなんです。

文字通り、クレジット(信用)カード会社は、個人ではなくて、企業がそれを担保してくれているだけで。

具体的には、いま購入を代行し、1ヶ月後までに働いて返してくれるであろうという信用がある範囲内で、カード会社がお金を立て替えてくれているわけですよね。

つまり、お金の受け渡し自体は、このタイミングで既に発生している。

それがクレジットカード会社を経由しているのかどうか、個人が立て替えてくれているかどうかの違いでしかないはずです。

いつお金が発生しているのかといえば、やっぱりここ、なんですよね。

この信用の正体がほぼそのまま、個人の資産としての「お金」の正体だと思います。

そして、この個々人の仕事の受発注の話がクレジット(信用)そのものであり、そのまま先日の東京の「田舎化」の話にもつながると思っています。

だからこそ「小さな経済圏」のようなものが生まれる萌芽が、まさにここになるなあと僕は思ったんですよね。

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どうしても僕らは、お金が圧倒的に世の中に行き渡り、その価値が絶対的に存在する世界に生まれてきてしまっているから、信用と金銭的価値が切り離されているように感じてしまっているけれど、実際にはそうじゃないわけです。

もともとはまず、個人の「信用」のほうが先に発祥しているはずなのです、間違いなく。

ただ、あまりにも僕らはお金、特に「金融社会ネイティブ」過ぎてソレに気づけないだけであって。

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これは『「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済』の著者でもある文化人類学者・小川さやかさんがよく語られている「インフォーマル経済」の話にもつながっていると思います。

小川さやかさんが取材しているアフリカの国々では、まだその原始の状態が残っているんだとも言えそうですよね。

じゃあ、なぜ残っているのかと言えば、よほどそのほうが反脆弱性にもつながっているからなんだと僕は思います。

つまり、国や経済が不安定な中で、一番最後に頼れるもの、より本質的な、その原始の状態というのが、そこにあるのだと思うのです。

これは、僕自身が20代前半のころ中国で働いていて、中国人がやたら「家族」や「親戚」を大切にしていて本当に不思議だったのですが、その理由もこの歳になってやっとよくわかりました。

「家族」のほうが「国民国家」なんかよりも、よっぽど原始の状態だからなんですよね。

言い換えると、どれだけ国民国家というフィクションの存在が壊滅し、動乱があったとしても、この「家族」の関係性さえしっかりと構築していれば、個人は死なずに済む。必ず再建できる。

それを中国人は、歴史や身体性を通じてわかっているということでもある。

そのほうが預金通帳に記載されている何億円という残高の数字よりも、よほど盤石だという解釈なんだと思います。でも日本人は完全に平和ボケをしているから、その家族のほうを、なんなら厄介なフィクションだと思ってしまっている。

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この点、あくまで預金口座の数字は失われないという蓋然性が高いだけであって、でも明日にはその価値が暴落してしまう可能性というのは全くゼロじゃない。

たとえばもし、いま首都直下型地震で日本経済が壊滅的にでもなったとしたら、マジでどうなるかなんて誰にもわからないわけです。

最近、頻繁に語っている無形資産の正体、そのひとつは、この個人間の「信用」だと僕は思います。

そして、それを共に築き上げていくという感覚が何よりも重要なのだろうなあと。

なぜなら、信用っていうのはどう頑張ってもひとりでは作り出せるものではないですから。

「そこに信用がある」とみんなが信じているから信用は、信用に値する。

逆に言うと、その価値というのは、これからは自分たちでつくり出せるようにもなっていく。三浦さんが、飲み会のときにそうしたように、です。

これをどうやって持ちつ持たれつの関係性の中で、共につくりだしていくかのほうがこれからは重要であって、その経済圏を新たに構築していくかの方法やアプローチが来年以降は非常に重要になってくるとも思います。

これからはもう、そんな金融の仕組みでさえ、ブロックチェーンやweb3技術を絡めれば、国家や中央銀行を経由せずとも誰でもつくっていくことができてしまうのだから。

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で、今の一般的な方法やアプローチは、まず新しい仕組みづくりをして、具体的にはNFTやFTを絡めた方法で先に枠を作ってしまって、そこに実体を走らせようとしています。

たぶん、それも正解だとは思いつつ、本当はまずは実体を作り出して、そこに経済を走らせるのほうが手堅いとも思っています。

むしろ、そのほうが盤石で、過度なバブル的なことも起こらなければ、過度に崩壊もしない。なぜならそのほうが原始の状態に近いからです。

もちろん、世間からも無駄に怪しまれず、信用されるものになるはずで。つまり、先に物々交換が行われている町を作るようなイメージです。

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ただ、現段階において何が足りないのかと言えば、2023年現在においては「実感」だけが足りていないなあと思います。

知識みたいなものは、ここ数年でみなさんの中に一気に広がったと思います。

お金の成り立ちや、お金そもそもを問うような本が多数出版されて、そのいくつかがベストセラーになっていることも、それを強く物語っている。

ただ、全部「知識」止まりになってしまっている。それが非常にもったいない。

あまりにも、従来からある既存の金融、その常識の引力が強すぎて、知識だけで知っていても、それを自分たちで、ゼロから作れるとは思えないわけです。

でも目の前で実際に行われていて、少しずつでもその実感値を増やしていけば、どこかで「あれっ?」って瞬間は必ずやってくる。

局所的なコミュニティの中で、キャズムを超える瞬間はきっとあるはずで。そのためには身体性に訴えかける「実感」値を増やすしかない。

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冒頭でご紹介した三浦さんの発言も、5年ぐらい前の僕だったら、取るに足らないバカげた話だと思ってきっと流してしまっていたはず。

つまり、圧倒的に銀行預金や証券口座内にある50万円分の有形資産が大事だと思っていた。

でも繰り返しますが、きっとそうじゃないんですよね。

だって、どちらも等しくただの信用だから。そして、信用っていうのは、それぞれの身体知の問題であって、その実感をどれぐらい強く持つことができるのかの問題です。

僕ら金融ネイティブには、お金の引力が実体の経験と相まって、強く刷り込まれすぎているだけかもしれない。

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ただ、最後にくれぐれも誤解しないでいただきたいのは、無形資産がなくてもいいと言っているわけではないということです。

そこは本当にくれぐれも誤解しないで欲しい。むしろ、必須であるとも言えそうです。

新たな信用を、信用に値するものとして立証するためには、既存の「信用」と紐付ける必要があるから。それは川や水路と、水道の関係性なんかにも近い。

これからは人為的な水道(無形資産)が各コミュニティごとにつくれるようになる。そのためには川(有形資産)と必ず結びつける必要がある。

そこに流れや流動性を生む必要があるんですよね。だとすれば水源となる、有形資産は絶対に必要になるはずです。

最後は、なかなかに抽象的な話が続いてしまい、わかりにくい内容だったかもしれないですが、来年以降、非常に重要な観点になってくる内容だと思っているので、引き続き考え続けていきたい内容です。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。