最近、配信されていたトークイベント『心の臨床の思想とはいかなるものか――観光客と村人で語り合う』を観ました。
登壇者は、東浩紀さん、東畑開人さん、山崎孝明さんという錚々たる顔ぶれ。
このアーカイブがとても素晴らしい内容で、特に前半部分から休憩時間までの高まり感は、本当に素晴らしかったです。
僕が印象的だったのは、お互いが持ち合わせていたそれぞれの研究に対して、その認識をぶつけ合う様子や、そこから御三方の魅力がそれぞれに言語化されていく過程が本当に素晴らしかった。
こちらの続編のイベントも、今後シラスで配信されるようなので、そちらもぜひ気になる方はご覧になってみてください。
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さて、僕が特にこのトークイベント動画を見る中で、ハッとさせられたお話があります。それは既にサロン内のタイムラインには共有していましたが、
「オープン・ダイアローグは、話されている内容よりも、言葉が交わされていることそのものに価値がある。」という東畑開人さんの言葉です。
この発言は、哲学対話など対話活動全般に懐疑的な東浩紀さんに対して、東畑さんがイベントの中で切り出した説明なのですが、僕にはこの言葉がとても腑に落ちました。
今日はこの点について、もう少し僕なりに、深堀りして考えてみたいと思います。
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この点、Wasei Salonは対話型コミュニティと銘打っているように「対話」をとても重視している空間です。
とはいえ、その対話の内容が、いつも素晴らしいものばかりかと言えば、決してそうではありません。
素人同士の対話なので、そこで語られる内容は時に凡庸なものになることも多いのです。でも一方で、そのような凡庸な内容だとしても、「ここには何かがある」と思ってずっと続けて来ました。
ただ、それをうまく言葉にできない感覚が僕の中ではずっとあったんですよね。体験してもらえれば一発で理解してもらえると思いつつ、一言では言葉にできない感覚があって非常にもどかしい思いをしてきたのです。
その中で東畑開人さんが語られていたこのお話が、本当にそのとおりだと強く実感しました。
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ここで少し話はそれますが、僕は最近、ChatGPTの「高度な音声モード」を使って、AIと毎日のように会話をしながら、自らのアイディアの深堀りを手伝ってもらっています。
時間制限に引っかかる日も多く、それぐらい本当にビックリするぐらい重宝しています。
でも、一方でこのAIとの間の会話においては、言葉のやりとりをしているんだという感覚はまったくありません。
キャッチボールというよりも、壁打ちのような感じです。ものすごく大きな壁としての役割を、生成AIに果たしてもらっているような感覚なのです。
もちろんAIからのフィードバックもありますが、そこで何かお互いの言葉が自由に飛び交っている感覚はありません。
これは言い換えると、こちらがどれだけ一生懸命にAIの言葉を受け止めてみても、相手、つまりAIには受け止められたという実感がない。
それゆえに、僕の中に受け取ったことによる「貢献感」のようなものも立ちあらわれてこないこともその大きな原因なのだと思います。
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しかし当然、人間と人間の対話の場合は、そうではないわけです。
相手の言葉を受け取り、そうやって自分以外の他者に受け取られたことも、見事に相手に伝わる。
そのこと自体が相手を励まし、またその自分の「受け取る」という受動的な態度こそが、相手の声のトーンを挙げたり、笑顔を生み出したりするということ。そしてそれ自体が「自己の喜び」にも転換されていくシーンって、いっぱいあるなと思うのです。
この「対話による受動的な対応によって、自己自身も変容していく」その感覚がこれから本当に大切になると思います。
AIが発達していけばいくほど、このような人間同士のやり取りの中に生まれてくる高揚感に対しては、より一層敏感になっていきたいなと思います。
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で、きっと、そうなってくるとも、内容というのはもはや二の次になってくるとさえ言えるかもしれません。もちろんそれは、とても良い意味において、です。
こうやって文字にしてしまうと、内容よりも言葉が飛び交うこと自体を重視するスタンスは、なんだか形式主義的にに思えるかもしれません。
しかし、人と人との対話において、本当に大事なことは、こちらにもあるのだと僕は確信しています。
さらに重要なのは、それが常に開かれた継続的な対話であることです。何度も過去に書いてきたように、一回限りではないこと。
ここに集まれば、またお互いに出会えるというその未来への信頼感のようなもの。これが何よりも大切なんでしょうね。
たとえ、その日は対話の中でわかりあえなかったことがあったとしても、また次に対話するチャンスは開かれている。このことそれ自体が、とてもかけがえのない機会になるのです。
多様性が開かれているなかで、それでも「共にいる」を大事にするときに、これ以上に相手との関係性を丁寧に育んでいく方法なんて、他にはないのではないかとさえ僕は思うのです。
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そして、その中でこそ、一期一会のような1回性も、逆説的なのですが実感できるようにもなっていく。
それがきっと「居場所」みたいな議論にもつながっていくのだと思います。
この点、同じく東畑開人さんの居場所の議論を思い出します。最近Twitter上で東畑さんは「居場所とは、変なままでいられる場所のことである。」と書かれていました。
これも数多くRTされていて、多くの人の実感値と重なる部分があったのだろうと思います。
もちろん僕もご多分に漏れず、大変素晴らしい定義だと思いました。
ただし、それが本当の居場所になるためには「自分自身が変でいられること」もそうなのだけれども、それはある種の結果論でもあると思っています。
この結果を生み出そうとする時に、本当に大事なことは「目の前の他者が変なままでいられることに、全力を尽くし合うことができる、その引き受ける胆力を持ち合わせている人々が同じ空間に集うことこと」、それが巡り巡って、本当の私の居場所になっていくのだと思うのです。
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ひとは、どうしても居場所を求めると、自分が変で居られることを強く望み、テイカー的な視点になってしまいがちです。
でもそれっていうのは、よくよく考えれば、そもそも原理的に不可能であることはすぐに気がつくはずです。
そもそも、なぜ変な人が社会の中で忌避されて居場所がなくなるのかと言えば、その人が共同体の和を乱すから、ですよね。
誰かが受け止めているからという理由から、わがままに振る舞い始めていれば、リソースが限られている有限のコミュニティにおいては、活動がままならなくなることは、最初から目に見えています。
だとしたら、残された道はただ一つ。
そこに集う全員が、レシーバーとしての役割を担っていることだと思うのです。つまり、「自分自身が変でいよう!」と意気込むわけではなく「自分自身が、相手の変を受け止めよう」とその覚悟を持って、飛び交っている言葉をしっかりと受け入れる、その役割を自らに担おうとすること。
「他者の居場所を、この私がつくり出すんだ」という主体性を、参加者一人一人が持ち合わせていて、そのようなペイ・フォワードでぐるぐるとまわっているコミュニティこそが、どんなメンバーにとっても結果的に居場所になるのだと思います。
そうやって、「1を助けられたら、2を拾う」それをメンバー全員が心がけていれば、リソースは有限であっても、枯渇することはなくなるわけです(原理的には)。
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このときに、先日もご紹介した、何かを能動的にはたきかける「キュア的なケア」ではなくて、養老孟司さんのいう「真の意味でのケア的な態度」がとても大切になるのだと思います。
相手の中にある「歴史性」を受け止めて、自分こそが、この対話の時間をより良きものにして受け止めることを一番に意識するんだ、そんなある種の形式こそを重視した態度が、コミュニティをより豊かなものにしていくのだと思います。
そのような気概を各人で持ち寄って、それぞれの身の丈にあった感覚としてピースが揃ったときに、本当の意味で「お互いに変であれる」関係性がそこに顕現してくるはずです。
その状態を客観的に眺められたときに「居場所とは、変なままでいられる場所のことである。」であるという定義が実際に成立する。
このあたりの感覚はこれからのAI時代、コミュニティ時代において本当にとても大事だなあと思います。
もちろん、Wasei Salonの中でも、引き続き強く意識していきたいところです。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2024/10/13 19:59