以前もここでご紹介したことのある養老孟司さんの『まともバカ』という書籍。

最近、オーディオブック版も発売されました。


これは本当に嬉しい展開で、書籍のタイトル、その攻撃性に惑わされずに、ぜひみなさんにも聴いてみて欲しいなあと思います。

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僕も今回改めて聴き返してみたんですが、そこで養老さんが「ケア」と「キュア」の概念を語られていて、非常に興味深かったです。

以前は読み流していた部分が、最近ずっとあらためてケアの概念について考えていた僕にとって、とても深く刺さる話だった。

そこで、今日は改めてこの本をご紹介しつつ、この内容について、自分なりに深めて考えてみたいと思います。

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まず、養老さんは「かけがえのない」という言葉から、話を始めていきます。

かけがえのないとはどういう意味か。それが一つしかないということだ、と。

「われわれの身体もやはり一つしかない。これと同じものは二つとありませんから、その面を強調してみれば自然の身体で、これにつくのが『かけがえのない』という枕詞となる。当然なことですが、かけがえのないとは、一回限りということです」と養老さんは言います。

この「一回限り」の理由として、養老さんは僕ら人間の人生、その「歴史性」を挙げている。

生まれた場所、親、これまでの人生経験—これらは取り返しがつかない、唯一無二のものが、それぞれの人生の中に存在している、と。

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ここで養老さんは結婚の例を挙げていて、それも非常にわかりやすかったです。

ひとがいったん結婚してしまうと、独身でいるわけにはいかない。

独身を通すと結婚するわけにはいかない。では、結婚して別れれば独身になれるかというと、そうはいかないのであって、結婚して別れたという別な状態になる、

俗に言うバツイチ状態ですよね。それは独身とはまた全く異なる状態です。

このように、人生は一度選び取ると取り返しのつかない決断の連続なわけです。

そして、そういった決断の積み重ねが僕たち一人一人の人間の固有性、その唯一無二の歴史をつくり上げているわけですよね。

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そして、こういった歴史性を持つ「自然の身体」が、最も明確に現れる場面として、養老さんは末期がんの状況を例に挙げます。

少し本書から引用してみたいと思います。

こういう身体が非常にはっきりと浮上してくる場面があります。癌の末期がそうです。あと三ヵ月しか生きられないということがほとんど確定してしまった段階で、その人がどう生きるかを考える。そこにはどんな答えがあるのか。末期医療の場合、その方がいままでどのように生きてきたかという人生の上に、残りの人生を設計する以外あり得ない。それしかないとわかってきます。人生は人によって違うから、誰にでもあてはまるような答えはありません。一般的な普遍的な回答なんかあるわけはないし、先ほどの数字になるような回答はありません。


そして、この「自然の身体」に対して行う行為を、養老さんは「ケア」と定義します。

対して、一般的で普遍的な身体として「人工身体」に対して行う行為を「治療」、すなわち「キュア」と呼ぶのだと。

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で、ここで当然の疑問が湧いてくると思います。

じゃあ、その「人工身体」とは一体なんなのか、と。

養老さんによれば、それは「取り替え可能、置き換え可能」なものです。健康保険の概念を考えるとわかりやすいと書かれてあって、ここも僕は非常に強く膝を打ちました。

再び少し引用してみます。

健康保険の論理のようなものを考えてみれば、ただちにわかってくることがあります。臓器移植が、医者の側でなぜ問題なく感じられているか。そのわけがどこから来るのか。それぞれの人が持つ、独自の、かけがえのない、その人だけの性質はできるだけ無視する。無視しなければ保険制度なんか成り立ちません。「ひとりひとり別だよ」といったら計算なんてできません。だから当然のことに、現在の医療制度で考えられている身体は、ある意味で平等な身体です。そういう平等な人工身体を扱っていれば、こっちの心臓とあっちの心臓は交換可能だという考え方になるのもまた当然のことです。


先日、ゆうとさんが「クリティカルビジネスについて考える」の対話会イベントの中で、「国民皆保険」の説明をしてくれていて、その話とも見事につながるなあと思ったので、ぜひアーカイブを観てみて欲しいのですが、日本の医療のこの制度、その背景には「こうあるべきだ」という究極の姿があるわけです。

だからこそ、万人に対して、平等に提供するという前提のもと「キュア」が成立するということでもある。

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一方で、「ケア」の場合は、それとは全く異なるアプローチを取ります。

最初から「あるべき姿」が想定されるわけではなく、それぞれの「かけがえのなさ」が優先されるわけですよね。それを、末期がん患者のケースで考えるとよくわかるよね、と。

だからこそ、数々のケアの書籍は、まず相手の話を聴くことの重要性を説くわけです。

それは相手のこれまで歩んできた歴史と、今立っているその位置を理解することから始まるわけだから。

これはたとえば、僕らが日本という国の歴史を学ぶのもまったく同じような理由なんでしょうね。

理想的な国家をつくる、人工国家をつくりあげるなら、それはアメリカのような「理想の国」として新たに建国されたものが、有無を言わさず、良しとされる世界観があるはずです。

でも一方で、この国にはこの国特有の歴史があり、その上で育まれてきた文化や伝統があって、そこには唯一無二性とかけがえのなさが同時に存在していて、そこには地政学的な特殊性なんかも存在している。

数多ある歴史上の選択のなかで、今この瞬間の「日本」が成り立っている。だから一概にアメリカのような人工国家にしてしまえばいい、なんて乱暴な議論はできないわけです。

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そして、これは一個人としての人間も全く同様なんですよね。

つまり、相手の固有性「唯一無二のかけがえのなさ」を尊重することが、ケアの本質なんです。

そこに評価を挟まないというのも、ものすごく大事な観点だと僕は思います。

逆に言えば、僕らが「ケア」という言葉を用いつつ、なんだか同時にそこにモヤモヤを感じてしまう原因も、まさにここにその理由の一端があるはずです。

それは、相手がこれが「ケア」だと勝手に思い込んだ「こうあるべきだ」から生まれる同情や決めつけを含む「キュア的な寄り添い」にほかならないんですよね。

そりゃあ、すれ違ってしまうのも当然です。

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さらに、ここで重要なのは、僕たちが一体いつ死ぬのか、本質的にはまったくわからないという事実なんですよね。

つまり、僕たちが置かれている状況は、実は末期がん患者の人々と、それほど変わらないんだとも思います。

残り時間が明確に医者から示されているか、まだ示されずに、知らされていないかどうか、それだけの違いなんです。

だから既に、僕たち一人一人が常に固有性を持つ存在なんです。それを尊重しないというのは、ケアとしてはありえない。

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ただし、養老さんも本書の中で強調しているように、「自然な身体」を尊重したかけがえのなさから生まれてくるケア的なアプローチと、「取り替え可能な」人工身体を尊重したキュア的なアプローチ、これはどちらが正しいという話ではありません。

どちらも正しいのです。

ただ、現代社会では人工身体のほうが強くなっていると、養老さんは書いています。この指摘には、僕も強く共感します。

だから、人間の「傷」に寄り添う場合においては、どちらの考え方も大切であるとした上で、ケア的なアプローチに意識をなるべく向けていきたいと思いますし、実際にこのような解釈を受けて、今ケアの重要性に多くの方が、意識・無意識関係なく気づき始めているのではないかと思います。

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現代社会において、僕たちは知らず知らずのうちに「人工身体」的な価値観に縛られがちになります。

「こうあるべき」に少しでもはやく近づけること、そしていついかなるタイミングになれば、そこに近づけるのかがわかることに重きを置く。

「わからない」ということに対して無性に焦ってしまうわけです。でもそれも、その人固有の「かけがえのなさ」であり、何も間違っていないし、過度に焦る必要がないし、実際にそう思えるかどうか。

たとえば、子どもの不登校や引きこもり、大人の鬱状態や無職状態なんかもきっと、人それぞれ多様な文脈があるかと思います。

効率や生産性を重視するあまり、個々人の固有性や歴史性を軽視してしまう傾向があるからこそ、いまとても大切にしたい観点だなあと。

相手の話に耳を傾け、その人の人生や経験の尊重し、一人一人のかけがえのなさを認識することです。

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もちろん、このWasei Salonにおいても、メンバーそれぞれにお互いの「歴史性」を尊重する態度で交流をしていける場にしていきたい。

世の中には「あるべき姿」のほうで評価される世界はいくらでも溢れかえっているので、せめてこの場においては、そんなふうに真の意味でのケア的なアプローチを実践していける場にしていきたいなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のこのお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。