Wasei Salonを始めてから、寝込むほどの風邪を引いたのは、今回でたぶん3年ぶり2回目。

前回は2021年の冬だった。忘れもしない札幌の狸小路のホテル。

ホテルの客室で意識を失いそうになりながらも、ひとりで寝込んでいたのは、今考えても結構頭おかしいなと思う。

これはもうぐうの音も出ない正論だと認めざるを得ないのだけれど、家があると風邪引いたときには、間違いなく便利です。それはどちらも経験した自分が言うので、間違いない。

他拠点生活とか無拠点生活って、お金の面の話が一番話題に上がりがちだけれど、体調管理がたぶん一番の肝になる。

それがままならないと、そもそも不可能な所業。いつか場所を自由に動き回れるような生活をしてみたいなあと思う方は、体調管理の方法を今から見直すことは強くオススメしたい。

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ただ、じゃあ、体調崩すことが一概に悪いことなのかと言えば、そうでもない気もしていて。

2021年は、ひたすらに神話学者ジョーゼフ・キャンベルの動画を意識を朦朧とする中で聞いていたからなのか、結構あのあたりから真剣に、神話について考えるようになった気がしている。

間違いなくあのときの体験が転機でもあったからこそ、今でもそのときに風邪を引いた時期の記憶を、鮮明に覚えているんだろうなあと思う。

ちなみにこれは、3年前もまったく同じこと言ったと思うんだけれど、風邪で寝込むって「小さな死」なんだろうなと考えるようになりました。

そして、毎回風邪になってから気づかされるけれど、そんな小さな擬似的な死を、最近どこかで自分は望んでいたなとさえ思わされる。

今回も三日三晩寝込んで、世界と完全に隔絶して、久しぶりに屋外に出てみたら、東京が金木犀の香り包まれていて、たった3日にもかかわらず、その変わり様に驚愕した。別世界というか並行世界に来てしまったような気分。

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こういうのは語弊があるから、本当に大っぴらには書かないし、誤解される恐れもあるから普段は書かないし表でも言わないけれど、でもやっぱり思うのは、死はどこか美しい。

だから、アートにもなる。

「生きることよりも、死ぬことの方が美しいということを描けるのが、アートの価値。それを高畑勲は描いている」という話をこの前聞いて、確かにそれはそうだよなと思った。

死や病の持つアート性。

最初から生を良いもの、死を悪いものとして捉えてしまったら、そのような思考自体に到達しない。そうすると、この世の半分も理解できないことになる。

単純な二項対立ではなく、その上で反転させるから、一見するとネガティブなものからも、学びや発見が多く得られる。

つまり、①生の肯定→②死の肯定→③生の肯定、ここが「それでも、この世は生きるに値する」の宮崎駿のスタンスだとすれば、そこからもう一度ひっくり返してくるのが高畑勲。

「死を美しいと言っちゃいけない。そのうえでなお、死は美しい。」

③と④のフェーズに関しては、もはや答えなんて存在しない。あとは、どこまで自らが探求するか。世界の掟、禁忌やタブーを破りながらも問い続けていくのか、は本人次第。

メメントモリなんて言葉で軽くまとめたくはないけれど。どちらにせよ、行って戻って来ることが本当に大切で、その小旅行ぐらいの感覚がたぶん、風邪。距離的には、箱根ぐらい。

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そして、病の神様みたいな存在は、突然なんの前触れもなく訪れるから本当に世話を焼く。

若い頃は、想定もしていなかった風邪に対して、スケジュールやこちらの想定をすべてぶち壊されるから、ただただ嫌なものとして捉えていた。身体としての自然に突如襲ってくる自然の脅威でしかなく、百害あって一利なし。

でも、その訪問に対して、違う意味で寛容になってきた感覚はある。

「あー、なるほどなるほど、たしかにたしかに、そういえばそういう時期でもあったかもしれませんね。すっかり忘れてました。で、どうですか、一献?」

という感じで、不意な来訪を毛嫌いしていても仕方なくて、まずは座って話しませんか、と。そこでの対話から得られる気づきや発見が山ほどある。

とはいえ「こちらにもこちらの人間界の都合というものもありまして…」と匂わせながら、引き上げてもらうタイミングを絶妙に探る必要もあって。

逆なでして、これ以上怒らせないような絶妙なタイミングにおいて 「ぶぶ漬けでもどうですか?」ぐらいに提案しておきながら、空気読んで(自分から空気を読んだと思ってもらうことが大事)気持ちよく帰ってもらうぐらいがちょうどいい。

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次来るときは、できれば3〜5年後ぐらいにして欲しいなあと思いつつ、こればかりは本当にいつ来るかはわからないので、できる限り、日々の予防を心がけ、来たら来たで、そこから今の自分が得られること、何がこの機会で浮き彫りになったのかを静かに冷静に、判断していきたいもの。

そして、今回はなんとかそんな絶妙なタイミングのやり取りも成功し、まずはもうここからぶり返すことなく、このまましっかりと全力で回復していきたい所存。

そんなことを考えていたら、ちょうど無事に京都につきました。

Voicyにも更新しなくてもいいことを考えると、より本音に近いことを書けて、なんだかこれはこれでいいなと思った。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。