昨日書いたブログに対して、Voicyでもお話してみたところ、とてもありがたいコメントをいただきました。
それが、僕自身が「色々なトレンドや現象をとても深く観察、洞察してかなり早い段階でちょっと釘刺し発言されている」というものでした。
なるほど、そんな印象を受けられているんだなあと思い、結構自分にとっては新鮮でした。こういう言語化は、とてもありがたいです。
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ただ、自分の中での認識としては、かなり違っていて、釘刺し発言をしているつもりはありません。
僕が目指していることは、自分にとっての「違うものは違う」ということを、周囲の空気に流されずに、淡々と発信しようと努めているだけなんです。
もちろん、肯定すべきことはしっかりと肯定したいと思っています。同時に、否定すべき部分はしっかりと否定していきたい。
少なくとも、何か自分の態度を最初から決めきって、違和感がある中でも、仲間内の評価を気にしたり、どちらかの派閥につくみたいなことは、決してしたくはないと思っています。ましてや、金銭的なメリットなんかには一番流されたくない。
僕は、その都度において、是々非々で判断していきたいと考えています。そして、それに対して他人からどう思われるかということはほとんど気にしていません。
できる限り、そのような束縛から自由でありたいと思って、これまでも自由業を営んで、自分の責任において、自分の思うことを、正直に発信してきたつもりです。
僕が常に気にして考えているのは、今自分が興味関心を持っているジャンルや場や空間が、より「善い」方向に向かっていると感じられるかどうかだということです。
その全体を見たときに、その時に足りない要素を補充している感じは、とても強いです。
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そんな中、最近たまたま文藝春秋オンラインで配信されていた先崎彰容さんと落合陽一さんの対談動画を観ました。
この対談内で、先崎さんがとてもおもしろいことを語っていたんですよね。
「ポストモダンは、相対化したりずらしたり、ひねったりすることなんだけれども、そのポストモダンが行き過ぎると、虚無に向かう」と。
「現代のように、そもそも中心の軸がない時代になってしまったときに、ずらすとかひねくれるだけでは、かえって社会がおかしくなる、閉塞していくというのが、僕のスタンス」だと。
これは、とても素晴らしい話だなあと思いました。
今の社会が閉塞している、それをずらしたい、壊したい、そのための皮肉。フランス現代思想の脱構築みたいな考え方が、頻繁に行われる。
でも、主軸がない中で、そればかりやっても仕方ない。結局壊れるだけで、何も立ち上がってはいかない。
本当に大切なことは、社会の秩序と、それを揶揄する存在の二律背反、そのバランスが大事なのであって、何か明確なあるべき姿があるわけではないんですよね。
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これは逆に言えば、秩序の意味を剥奪するニヒリズム的な視点というのも、基本的には王道、つまり秩序側に依存しているということでもあります。それがあるからこそ、揶揄も輝く。
でも、じゃあそのニヒリズムの輝きみたいなものを受けて、全員がニヒリズムに走っても意味はないことは誰にでも想像できる。
先崎さんが語るように、王道や秩序が健全に機能していない状態において、ニヒリズムや揶揄は、虚無でしかない。
だからこそ、その拮抗するバランスの中での、お互いの位置関係に対してどれだけ自覚的になれるかどうか、だと思っています。
それらが適切に拮抗し合っている状態において、世の中は健全に継続発展していくのではないでしょうか。
当然、時流の中で右に振れたり、左に振れたりはしながらも、そのバランスと運動が健全に機能していれば、レジリエンスを発揮して半脆弱性みたいなものを発揮し、大地震の際の高層ビルのように、大きくしなりながらも倒壊はせずに立っていられる。
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たとえば、ものすごくわかりやすい卑近な例で言えば「老害」という現象があります。
老害という現象や、その存在それ自体が悪いかのように語られることがありますが、別に老害それ自体は良くも悪くありません。本当に中立的な事象だと僕は思います。
老害には、ちゃんと老害的な役割が社会の中には存在しているのです。経験や知恵を伝承し、急激な変化を緩和する役割を果たす場合もあります。
じゃあ、今の本当の意味での問題点は何かと言えば、そのバランスが完全に崩れてしまっていることに、大きな問題があるわけですよね。
団塊の世代だけではなく、その団塊ジュニア世代、つまり今の50歳前後の世代も、続々とソフト老害のようなポジションに入ってきて、老害力を発揮する人間が多数派になってしまう稀な時代に突入していること。
これまでの人類の長い歴史の中で、そんなことはほとんどなかったのです。
さらに、その分、子どもや若い世代が増えているかと言えばそうではありません。単純に負担だけが大きくなってしまっている。
社会の秩序的なものが巨大化しすぎているとも言えるし、一方で若者が新たに作り出そうとしている次の時代の秩序に対しての、批判や横槍の声が大きすぎるということでもあります。
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繰り返しますが、老害的な態度の存在は、世の中には必ず必要です。長老がいないコミュニティなんてものはありえません。
ブッダは、「老人を敬う国は栄え、老人を軽んじる国は滅びる」だから、その国が今後も繁栄するかどうかは、老人の扱い方でわかると語ったらしいですが、それはいつの時代においても、本当にそのとおりだと思います。
そうでないと、やっぱり左派思想が強すぎることによる社会主義国や、独裁国家、全体主義にまっしぐらになってしまう危険性があるわけですからね。
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もちろん、だからといって開き直ってグイグイ行くのも違う。
どちらかを原理主義的に正解だと思うこと自体が、完全なる間違いだということが、今日の僕の一番の主張です。
「過ぎたるは及ばざるが如し」というのはそういうことだと僕は思っています。
客観的な善悪があるわけではなく、そのバランスを保つために、是々非々で判断をして、今本当に必要なところに、自分の主義主張をしっかりと立てていく。
そして、そこに正解はありません。その時々の適切な形があったね、と未来から遡行的に発見されるだけであり、だからこそ、問い続けるほかないわけです。
そして、東浩紀さんの「訂正可能性」のような「再出発」をする力、それ自体が健全に続いていくだろうという運動それ自体を、俯瞰で見ることが大事なわけです。
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先崎さんは動画の中で、落合さんの活動に対して「ラディカルであるとは何かを常に考えて、さらにそのラディカルであることに対して自覚的であること、それが落合さんの良いところだ」と肯定的に評していましたが、そのような多角的な視点が必要なんだと思います。
王道の軸となる部分と、横槍が健全に機能して、より「善い」方向に向かおうとしているかどうか。
当事者の視点と、一歩引いた上からの目線、そしてよく語られるような魚の目、つまり「流れ」の視点みたいなものが同時に存在するかどうか。
それが歴史の中では長い時間かけて磨かれて、形作られていたりもするわけです。表現の自由や普通選挙制度など、何かどこかのバランスが崩れると危うい方向に向かうのか、それを先人たちは自分たちの経験を通して容易には変えられないように築いてくれてきたわけですから。
議論ができる土台が存在していること。そこに敬意を払う。まさにそれが「リベラル保守」的なスタンスだと思います。
そしてこれはまさに「変えることと、変えないこと」そのバランスの問題なわけです。
最後は完全に宣伝になってしまうけれど、10月17日にIKEUCHI ORGANICさんの京都ストアのイベントの内容も、まさにこの問いです。
僕がファシリをつとめて、IKEUCHI ORGANICの池内代表と、建築設計士の黒木さんのお話を伺います。
いま本当に重要な観点であり、とっても大事なことなのだと思うので、とても楽しみなトークイベントです。
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僕がいま思うのは、変えることと変えないことに自覚的になりつつ、それ以上に意識するべきは、その変えることと変えないことが決まる過程、その運動そのものにもっともっと意識を目を向けるということです。
その運動が健全に機能していなかったり、秩序側か、揶揄する側、そのどちらかの声が大きくなりすぎていたら、たとえどれだけユートピア的な状態であっても、きっとそれは間違っている。まさに「マトリックス」の世界のようなものです。
だからこれからも、そのバランス感覚を大切にしながら、より「善い」方向に向かうためにこそ、自分が考える「正しいものは正しい」と言い、「違うものには違う」ということをはっきりと臆することなく言及していきたいなと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていれば幸いです。
2024/10/02 18:49