今日は、昨日の続きのような内容になります。
昨日、僕は「責任を引き受ける主体になること」がこれからの人間の役割であり、大切な「お仕事」のひとつになるという話を書きました。
今日は、その考えをさらに掘り下げてみたいと思います。
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まず「責任を引き受ける主体」とは何か、もう少し具体的に考えてみたい。
それはただ単に、問題解決のために、すぐさまアクションを起こす存在ではないということです。
むしろ、問題や課題を確かに受け取り、深く考える「受容する主体」のことだと思っています。
この姿勢というのは、人と人との縁をつむぐ際にも、非常に重要になってくる考え方なんだろうなと最近漠然と考えています。そして、そこから派生する重要な役割が、まさに「つなげる」そして「育む」ということ。
人間同士の間柄に生まれる関係性の中にこそ、何か「本物」のようなものが宿るとするならば、その関係性のハブになること。
つまり人と人をつなぐ結び目になることが非常に大切になってくる。そしてそれをちゃんと育む。
その結び目の役割が「責任を引き受ける主体」そのものだと、僕は思うんですよね。
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この考えは、最近読んだ放送作家・鈴木おさむさんの一連の書籍の中で、何度か繰り返し出てきた「縁と縁をつなげて、大きな円にする」という言葉を聞きながら、ふと頭に浮かんだことでもあります。
鈴木おさむさんは長年、放送作家として、おもしろいテレビ番組、つまりコンテンツを作り続けてきたひとだと思います。
そんな彼が、放送作家を辞めて、若手起業家の育成に力を入れようとしているようです。この姿勢に対して、なんだか僕は強く共感してしまいました。
結局のところ、人と人とのつながりを丁寧に紡ぎだしていく、そのきっかけを生み出すこと。そして、それらのつながりが大きな円として、ゆるやかなコミュニティを形成していくこと。
これこそが、僕たち人間に残された重要な役割のひとつなのだと思うのですよね。
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また、それは同時に、人々をつなぐ「媒介」としてのメディア的な役割でもある。
言い換えると、それは昔はおもしろいコンテンツがまさに担っていた役割でもある。でも今は、おもしろいコンテンツ自体が完全に飽和をしてしまった。
逆に、人と人とのつながりのほうがおろそかになってしまっている。人を介さずに、コンテンツだけが無限に手元のスマホに届いてしまう。
だからこそ、「つながり」にもう一度フォーカスを当ていることはものすごく理にかなっているなと思います。それこそが逆説的に「メディア業」を続けるということでもある気がするのです。
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ここで重要なのは、こうした取り組みを何か大規模なプロジェクトとしてではなく、もっと身近な
「顔の見える距離感」で実現することだと感じています。
僕は最近、小規模な交流会をいくつか開催しているとブログに書きました。
正直なところ、参加者は全員自分の知り合いなので、それぞれの集まり自体は、和気あいあいとした楽しい時間になることはある程度、予想できてしまいます。
なんなら、もっと盛り上がると思ったのに残念だったな、ぐらいに思う日もある。
しかし、意外なことに、気づいたんですよね。それはなにかといえば、参加者の方々にとっては、そのような盛り上がりにかける集まりでさえ、新鮮で価値のある体験だったということです。
会が終わった後に、参加者同士で新たなつながりも生まれて喜ぶ姿を見て、僕は自分の結び目をつくる役割には、他の方々にとっては、大きな価値を持つこともあるのだと改めて強く実感しました。
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これは、従来の飲み会や懇親会、立食パーティーなどの交流会とは全く異なるアプローチだと思っています。
そういった場というのは往々にして、主催者やイベント企画者が主役であり、参加者はただの「賑やかし」のような扱いを受けがち。「あとは、どうぞご自由につながってください」と放置されてしまう。
しかし、僕が目指すのは、参加者こそが主役で、企画側がしっかりと引き立て役に徹するような形です。だから小さくないと無理なんです。
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そして、ここで重要なポイントは、こうした「場」を作り出すためには、誰かが「責任を一旦引き受ける主体」になる必要があるということです。
そして、その役割を僕自身が担っているからこそ、このような取り組みが実現できているのだとも思っています。
僕が長年積み重ねてきた経験や、共に過ごしてきた時間が「はじめまして」同士のひとの自己開示の際の担保となって、架け橋となって、その場に集う人々に安心感を与えてくれるわけですよね。
この「責任を引き受ける主体」になることの重要性を最近になって、なんだかより強く実感するようになってきています。もちろん、このWasei Salonという場の機能も然り。
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そして、この考え方は「ケア」の概念にも深くつながるとも思っています。「引き受ける主体になる」ということは、まさに「ケアする」ということそのものなんだろうなあと。
それは、相手の中にある想いみたいなものを、一時的に預かる器のような状態になること。そんなふうに「一旦お預かりします」という態度が非常に大切になる。
現代社会においては、タイパやコスパを重視するあまり、問題や悩みがどんどん横にパスされて、適切に”解決されてしまう”傾向があるなあと思っています。
しかし、それこそが人々を孤独にさせる大きな要因になってしまっている。
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例えば、病院で診察を受ける際、各所をたらい回しにされた挙げ句、ようやく診てもらえた医師が、自分ではなく検査結果の数字ばかりを見ていて、自分の話をきちんと聞いてくれないような経験をして、言葉にできない孤独感や孤立感を抱えたことがある方は多いはず。
たしかに、それが一番早く病が治るプロセスなのだろうけれど、それはサブスクを契約させられて、ひたすら手元に新作の人気コンテンツだけが届き続けるあの空虚感とも非常によく似ている。
それこそが、現代社会が抱える大きな問題の一つだと僕は考えています。
だからこそ、あいだの「ただ引き受ける主体」「ただ聴いてくれる主体」の存在が重要なわけですよね。
「この人が、間(ま)や間柄を取り持ってくれるなら大丈夫」という安心感。そこにこそ何か「本物性」のようなものが宿るし、人々が求めている安心感や、つながりの本質が生み出されるのだと思います。
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それは、長い時間をかけて積み重ねてきた信頼関係のうえにだけ成り立つものです。
「あなたが言うなら仕方ない、あなたが言うならきっとそれなりに意味があるのでしょうね」というやりとりができる関係性において、初めて発揮される。
そういった信頼関係をどれだけ長い時間をかけて築いてきたのかが重要なのだと思っています。
で、ここで改めて強調しておきたいのは、これらの役割は決してAIにはできないということです。
深く受け止めて、引き受ける主体になる。そして、時にはおせっかいをする。これがきっと次に求められる「人間らしさ」であり、AIには代替できない重要な役割になっていく。
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不意に「おせっかい」という言葉を使いましたが、これは以前のブログでも触れた話題です。
そして、ふと思い出したのが、2018年に発酵デザイナーの小倉ヒラクさんに、山梨のローカルラジオ番組に呼んでいただいた時の体験です。
その時、番組のパーソナリティであるヒラクさんから「鳥井くんは『見守り型のヘルシーなおせっかいおじさん』になりたいんだね」と言われました。
あれから6年も経ちましたが(つまりまだWasei Salonを始める前)、結局のところ、僕の目指すところは何ひとつ変わっていないのだなと実感します。
「見守り型」と「おせっかい」は、一見すると相反するように思えるかもしれません。でも、この両者を同時に実践することこそが、ある種の「ケア」の形なのだと、僕自身は今なんだかとても腑に落ちています。
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僕は今後も、この「見守り型のヘルシーなおせっかいおじさん」の役割を実直に果たしていきたいなと思っています。
そのために、Wasei Salonも長年続けているのであり、それが広義の媒体や媒介としての「メディア運営」の延長線上にあると信じていたりもします。
単に人々を「コンテンツ」でつなげるのではなく、本当にしっかりとした文化的な基盤を整えて、敬意と配慮と親切心、そして礼儀を兼ね備えた人たちにこそコミュニティ集まってもらい、ゆるやかにつながってみてもらう。
そこでは、メディアとコミュニティの機能が渾然一体となって機能するはずですから。
言い換えれば、この門をくぐり、それぞれの肩書きを外してくれれば、ここで起こることに対して身構える必要はありません、「どうぞ安心して」という「喫茶去」精神を大切に。
そして、ここでお互いに深いところでつながった後は、また各自が自分の持ち場に戻り、日々各人が自らの実存において問い続けること、まさに「お茶を飲んで去れ」というわけです。
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僕がそんな風に「責任を引き受ける主体になること」を引き受け、そこで生まれた新たな問いや課題もしっかりと改善していくこと。それが僕の役割だと考えています。
「つなぐ」「受け止める」「育む」そんな役割が、これからの時代に人間に残された数少ない「お仕事」のひとつだと確信をしています。
そのための「信頼」を各メンバーやVoicyのリスナーさんたちと共に積み重ねるために、日々新たな土地や人々を訪ねて旅をし、多くの本を読み、丁寧に書き続けていきたいなあと。
みなさんに「このひとの言うことなら、ちょっと変なことでも、一回聴いてみてやってもいいかな」と思ってもらえるように。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考になっていたら幸いです。
2024/10/01 21:12