昨夜、Wasei Salon内でセネカ著『生の短さについて』の読書会が行われました。

イベントの最後、自分の口から自然と以下のような言葉が出てきました。

「この本が書かれてから2000年後に、日本でzoomを使ってこの本の読書会が行われているということは、今から2000年後、宇宙空間で何かしらの方法でこの本の読書会が行われていても全く不思議ではない」

今日はこの言葉の真意について、もう少し深めて考えてみたいと思います。

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どうしても僕らは、数千年前に書かれた古典は、なんだか古臭くてカビの生えたようなものだと軽視してしまいがち。

それよりも、毎日メディア上で飛び交っている新しいモノや考え方のほうが息が長そうに感じてしまい、新しい概念にすぐに飛びついてしまいます。

これはもう、人間の動物的直感に従って、無意識的にそう判断してしまっているのだと思います。

なぜなら、目の前にヨボヨボなおじいさんと、生まれたての赤ん坊がいたら、赤ん坊のほうが息が長いことは明白で、その経験的知覚から合理的に推論すれば、間違いなく新しいモノのほうを自らの身体に吸収した方が良さそうに思えるからです。

でも、冷静に考えてみると、2000年先にも残っている可能性が圧倒的に高いのは、過去2000年間のあいだずっと風雪に耐えてきた実績を持ち合わせている「古臭いモノ」のほうなのです。

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きっと、今から2000年後の宇宙空間では、「NFT」も「メタバース」という概念も誰も一切語ってはいないでしょう。

そう考えると、普遍的であることが、実は現代において「一番最先端なこと」でもあるのかもしれないなあと。

もちろん、誰もが絶対になくならないと思っている「東京」という街でさえも、地震のような災害や疫病、戦争を繰り返していけば、2000年後には跡形もなく消滅してしまっている可能性がある。

物事の「息の長さ」というものを完全に誤解していたなあと、昨日の読書会を通じて、僕は強く反省してしまいました。

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そして、なによりも一番興味深いなと感じることは、いまを生きる僕らがこうやって「理解し、反省してしまうこと」です。

この発見、それ自体が2000年先の未来へと投企することに繋がっているわけですよね。

具体的には、2000年前からの贈り物だと「私」が理解し、「贈与」として受け取ってしまった以上、そこに反対給付義務が生じてしまっていると「私」が実感しているわけです。

そして、きっと僕らと同じように、過去から与えられたそんな被贈与性に気がついたひとたちが、この2000年間のあいだ、僕らのためだけにここまで必死に繋いできてくれたのです。

それこそ、世界中のひとびとが懸命に繋いできてくれたおかげで(せいで?)今この瞬間、自分たちに偶然に繋がってしまって、途方もない「負債」感を背負わされたと感じている「私」という主体が生まれてきてしまった。

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この負債感は、受け取ってしまった後、つまり昨夜の「読書会」を終えてからでしか、絶対に立ちあらわれることがない感覚です。

この負債を追うことに対して、負債の大きさを先に理解し、あらかじめ契約書のようなものにサインしたわけでは決してありません。

2000年前からの贈り物というのは、きっとそういう宿命を帯びているものなのだと思います。

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ここまで書いてしまうと、あとは、自らの身体と行動を通じて「この本が価値あるものである」と必死で証明しながら、また次の世代に贈与していく主体に「私」がなるほかない。

本当にとてつもなく大きな反対給付義務(負債)を負わされてしまったなあと思います。でも不思議と決して悪い気はしません。

むしろ、改めて人生とは本当におもしろいものだなあと感じてしまいます。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけになったら幸いです。