いわゆる「社会活動家」と呼ばれるような方々が頻繁に用いる典型的な批判のひとつに、

「我が子に説明ができない」や「我が子に説明するときに矛盾が生じてしまう」という論理があります。

一見すると、このような批判はものすごく真っ当な指摘のようにも思える。

確かに、純粋無垢な子供に説明できないことは、この世にあってはならないよなあと。

でも僕は、これが結構危うい論理だと思います。

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思うに、彼らの主張は「我が子にちゃんと説明できないことは、誰かが何かを誤魔化しているに違いない」と言いたいのでしょう。

もちろん、実際に権力者や有識者に誤魔化されてしまっている部分も多々あるかとは思います。

しかし、幼い子供にちゃんと説明できないことがすべて間違っていることだとも限らない。

むしろ「子供に説明できないことはあってはならない」を理由にして、子供が理解できるロジックで世の中のすべてを説明しようとすれば、複雑な事象や「矛盾するがゆえに、正しいこと」までを社会から排除することになりかねない。

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そもそも、自分が全く予期しなかったところから突然やってくるものが、学びや真理の特徴です。

すべてが自分の脳で予測・理解できることだけで目の前の世界が構成されていれば、それは確かにノンストレスで快適かもしれないけれど、それ以上の成長も発展もしていきません。

それは「アンパンマン」の物語が、子供でも理解しやすい論理でずっとエンドレスに続いているけれど、一向に成長も発展もしていかないのと同じことだと思います。

どこかのタイミングで必ず子供は、アンパンマンの世界観から卒業しなければならない。

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この世の中には、なぜそうなるのか、大人でも全く理解できないことが山ほどあります。

でも、ある地点まで進んだところで振り返ったときにやっと理解できることや、そこに意味づけを与えられることも往々にしてあります。

理不尽な自然災害なんかも、そのひとつと言えるかもしれません。

「我が子に説明できないから、間違っている!」という主張は、「自分に理解できることが善で、自分に理解できないことはすべて悪だ」という単純なメッセージを無意識のうちに子供に送り続けることになってしまうだけ。

ましてや、子供に説明できないからという理由で、社会のほうが間違っていると声高に叫び、その論理で他者を先導しようとする姿を親が子供に見せつけるのは、百害あって一利なし、だと僕は思います。

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そうやって育ててもらった子供は、学ばない大人になり(実際は「子供」のまま)、「この俺に理解できないことは誰かがズルいこと、間違ったことをしているに違いない」というロジックを採用して、自分の不勉強を棚に上げて他者を批判し続けてしまう。

ラピュタのドーラのように「あんたにはまだ難しくて理解できないことがこの世界にはいっぱいあるんだよ。理解したかったら必死で勉強しな」と冷たく突き放し、

「大人の世界」が別にあることを暗に伝えて、それが何かを知りたくて自ら探求したくてたまらない子供になるように仕向けてあげることのほうが、実は大切なのではないのかなと。

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改めて、問い続ける姿勢、わかった気にならないことって本当に大切なことだよなあと思います。

賛同してくれるひとは決して多くはない意見だとは思いますが、今日のお話が何かしらの考えるきっかけにつながったら幸いです。