先日ふと思ったのだけれど、僕らは原理的に「母親」という存在を、サンプル数1でしか知らない。
特に「産みの親」という厳密な意味で言えば、どんな人間にとっても、母親はこの世でたった一人しかいない。
だから僕らは実は、ものすごく固有性のある特定の女のことを、自分の中の普遍的な「母親像」として扱っているわけですよね。
でも、これってよくよく考えると本当に不思議なことだなと思います。
パートナーでは絶対に起こり得ないことなのに、「母親」という人類普遍の存在を、僕らは誰もがサンプル数1で判断し、会話をしている。
他にこんな事例、人生であり得るのだろうかと、ふとモヤモヤと考えてしまいました。
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で、そんなことを漠然と考えていたときに、福田恆存の『人間の生き方、ものの考え方』という本を読んでいたら、まさに僕が考えていた、この問題意識が見事に書かれてありました。
さっそく本書から少しだけ引用してみたいと思います。
一体、母親というのは万人にとって共通の存在であるか。たしかに、自分を生んでくれた女という共通な意味はもっております。ところがわれわれは母という言葉を決してそういう動物的な意味で使っているわけではなくて、個人個人によって起る千差万別のイメージをそれにこめて使っているのです。生れた時から母親の顔を見ない人が母という言葉を使う場合と、いつくしみ深い母親に育てられた人が母という言葉を使う場合とでは、その言葉にこめられた内容は全く違って来るわけです。
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これは本当にそうで、まさにこの話をしたかったんだ!と感じ、非常に上手に言語化をしてくれているなあと思います。
で、さらにおもしろいのは、ここから福田は「愛もそうだ」と語ります。
続けて本書から少し引用してみます。
その他、恋だとか愛だとかいう言葉も同様で、それらの言葉を皆一様に使ってはおりますが、その場合使う人によって意味している内容は一人一人違うわけです。それに気がつかないで「愛」という言葉には何か客観的な共通な意味があるものだときめてかかって安心している。ところがしばらくたってその違いがやっとわかってくる。その時になって「あなたは私をだました」というようなことになるのですが、だましたのは実は相手ではなく、「愛」という言葉は共通なものだと思いこんだこちらの錯覚から来ているわけです。
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こちらも、本当にそうだよなあと思います。
つまり、相手の「愛」の定義によって、こちら側に提供されたものを、自分の「愛」の定義、そのものさしではかることによって「騙された!」という話になっているだけなんですよね、本当は。
でも、それぞれが自分の中の「愛」の定義に合わせて違うものを指さしながら、言葉の上では同じものを指していると思い込んでいるのだから、お互いにズレてしまう。そしてそれは当然なんです。
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しかも、さらに厄介なところは、そのズレに対して違和感を感じて、その本質を自ら学べば学ぶほど、余計に周囲とズレていくということだと思います。
「愛」ひとつとっても、それは簡単に理解できる。
たとえば、エーリッヒ・フロムの名著『愛するということ』なんかを読み解こうとする態度なんかは、非常にわかりやすいかと思います。
あのフロムの素晴らしい論証によって「あー、確かにそうだ。ここに書かれていることこそが本物の愛だ」と思ってみても、それは世間一般的な愛とは、大きく異なるわけです。
というか、世間一般的な愛に対して「そんなものは愛ではない。愛は”技術”である」と誰も語ってはくれない角度から語ってくれるから、僕らはフロムの説に深く感銘を覚えるわけですからね。
で、さらに少し嫌味な言い方をすれば、そうやって学べば学ぶほど「自分は”正しい愛”を知っている」というその傲慢さにおいて、ふたたび足元がすくわれてしまったりもするわけです。
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だからこそ、本当に大切なことは、言葉というものは客観的なものではない、これほどまでに大いにズレるということを、まずはちゃんと理解することが大切なんだろうなあと。
今日のいちばん書きたいメッセージも、ここにあります。
福田恆存も「すなわちそれは、国語というよりもその人の”個人語”なのです」と語っていました。「同じ言葉を使っておりながら、皆が外国語をしゃべり合っているようなものです」と。
本当の外国語なら、最初から一切わからないから、お互に誤解は生じないけれども、自分のなかになまじ似たような概念が同じ言葉として存在しているから「母親像」であっても「愛」であっても混乱を極めるわけですよね。
そして、学べば学ぶほど一般論からはドンドンとかけ離れていき、それゆえに「わかった気になって」啓蒙的な態度にもなってしまう。
そして、その啓蒙的な態度が、周囲からも疎まれてしまうわけです。
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だからこそ、大事なことはやっぱり「まず相手の関心事に感心を寄せるところから」なのでしょうね。
相手が一体どういう意味合いでその言葉を用いているのかを、最初に丁寧に聴いてみること。
とはいえ、これは「定義を明確にしてから議論を始める」ことではない。そこはくれぐれも誤解しないで欲しいところです。
そうじゃなくて、相手が無意識レベルでどのように認識しているのか、そしてそれが自分の無意識レベルの認識と、どれだけ同じであって、どれだけズレているのか、そこから判断をしていかないといけないということです。
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そして、その両者のあいだに、お互いのどちらの言葉の意味合いでもなく、第三の言葉の意味合い、そんな”対幻想”を立ち上げていく。
その対幻想を立ち上げていこうとする意志を持ち合うことこそが、とても大事だということなんでしょうね。
その姿勢こそが、お互いに分かりあうための第一歩。それが成立して初めて、本当の意味での「対話」なんかも始まっていく。
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昨日のブログにも書いた「お互いに耳を傾け合うこと」の意味も、きっとここにある。
逆に言えば、全員がそれぞれに持っているものさしを持ち寄って、事物を対象化をしてしまうとこれが一切わからなくなってしまう。
言い換えると、どうしても自分のなかの言葉の意味だけで、相手の存在を対象化して批評や評価をしてしまう。
だから「それは違う!」と、強く批判もしたくなるんだと思います。今のTwitterやYouTubeを見れば、そのオンパレードです。
そうじゃなくて、まずは相手の中にスルッと入り込み、その奥を知ろうとすること。
昨日もご紹介した松尾芭蕉の言葉にもあるように「松のことは松に習へ、竹のことは竹に習へ」は本当にそのとおりで、まずは相手の世界に身を浸してみようとする姿勢が不可欠になるんだと思います。
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また、相手の個人語、その言語感覚を学ぶというのは、言葉の意味だけではなく、それが使われている場所、相手が生きてきた場所を観に行くことも非常に大事になる。
その場で形成されて生まれてきた言葉なんだから。
「国ごとの地政学的な見地から生まれる文化の違いを知る」みたいな話と全く一緒で、個々人においても「場の文脈」がとても重要になる。
そして、その知ろうとする行為を通じて「究極的にはわからないんだ」とハッとする体験も重要だと思うのです。
むしろ、ソレを知ろうとすればするほど、わからなくなるのは当然だなあって思います。
だって相手と自分は全く違う人間で、相手の人生を私は一切体験していないのだから。
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究極「同じ人間として、同じ世界を体験しないとわからない」というその謙虚さ。
相手が用いる”個人語”のネイティブに私はなり得ないというような、ある種の諦めや、ある種の絶望、それが相手への敬意そのものでもあるよなあと僕は思います。
むしろ、「知ろうとすればするほど、わからなくなる」という体験こそが、相手という存在の奥深さ、そして自分とは異なる唯一無二の人生への好奇心や探究心、その出発点になるということなのでしょうね。
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最近は、AI時代だからこそ、このあたりを身体感覚を通して深く体験し、深く自覚したいなと思う。
そして、これを真の意味で理解しているひとたちが集まれば、きっと現代のような争いも起こらなくなる。
何かすれ違いやズレが起きても「自分の言葉の理解のほうが悪かった!」となるわけだから。
以前もご紹介したような、そんな中村天風が語るような”悪人”だらけのコミュニティを構築していくことが本当に重要なんでしょうね。
そこにいる誰もが、自分の「ものさし」の不完全さを理解している。ゆえに誰もが、他者の「個人語」に謙虚に耳を傾けようとする、そんな悪人の集団。
Wasei Salonも、そんな意味での悪人だらけのコミュニティになればいいなあと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考になっていたら幸いです。