先日Voicyで配信した、ゲスト最所あさみさんと共に語り合った『リアリティーショーの光と闇』という内容。
プレミアム配信にもかかわらず、みなさんからも続々と感想をいただけていて、とっても嬉しいです。
タイトルからは、かなり乖離したお話も中盤では語られたわけですが、最終的には、またタイトル通りの話にもつながっていき、とても素晴らしい対話の過程だったなと思います。
まだ聴いていない方々にも、ぜひ聴いてみて欲しいなと思います。
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さて今日は、このプレミアム配信の中でも話題になった、音声配信と動画の違いについて、改めて考えてみたい。
具体的に言えば、音声配信は「耳を傾ける」コンテンツであり、動画配信は「まなざしを向ける」コンテンツである、その違いについての話が非常におもしろかったです。
それゆえに、動画はアディクトするものであって『オフラインラブ』を中心に、リアリティ・ショーというのは目を奪われやすい。
でも音声は、むしろ「話す」ことによって、「離す」ことにつながり、結果的に自分の想いを付託できることにもつながる。
それが、耳とまなざしの違いにもつながるよね、という話が個人的にはすごくおもしろかったです。
当然、どっちが良い・悪いというわけではないですし、パキッと切り分けることができるわけでもない。
そこには無限のグラデーションが存在していると思います。
ただし、今のオンライン上のコンテンツは、その2極化が進んでいる状態にあるのだと思います。
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で、なぜこの話を改めて、今日のブログで書きたくなったのか。
その理由は、先日、Log nagareに行ってきて「焚き火」のおもしろさを改めて自覚したからなんです。
「焚き火を囲むと、普段しない話をしてしまう」と一般的に語られることも多いですが、僕らの今回の焚き火の時間も、その例外ではなかったです。
それぞれのプライベートに踏み込んだ話も多かったので、具体的な内容への言及は避けますが、普段だったら絶対に話さないような内容を、みんなで深く語り合ったんですよね。
「なぜこんなことが起きたんだろう…?」とここ数日ずっと考えていたのですが、それはきっと焚き火を中心に囲むことで、お互いの「まなざし」を消失できたからなんだと思ったのです。
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特に、僕らが今回焚き火を始めたのは21時過ぎで、周囲の明かりもほとんどない状態。
光という光は、焚き火の明るさだけ。
また、聞こえるてくる音は、みなさんのかすかな声とパチパチという薪の音のみ。
当然お互いの表情どころか、顔さえも満足に見ることができず、お互いのシルエットがぼんやりと揺れるだけでした。
近くにメンバーがいるということはわかるけれど、目が合うことはまったくない。そうすると、相手がただ静かに「そっと耳だけを傾けてくれている」を疑似体験することができたんですよね。
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今回の体験を通して、きっと5万年前の人類が真っ暗な洞窟の中で焚き火をしている感じって、まさにこんなイメージだったのだろうなあと思いました。
その結果、本能としての何かが呼び覚まされる感じもありました。もはや、自分の意志や理性でどうにかなるようなことではない。
まさに親密空間としての、焚き火の魔力です。
相手の話を受けて、相手を評価・観察する(対象化する)ことなく、ただ静かに「耳を傾ける」状態が勝手に生まれてくる。
そして、この体験を通して、「焚き火が元祖・音声コンテンツだったんだ!」とも思いました。
佐々木俊尚さんが以前、Podcast番組「オーディオブックカフェ」にゲスト出演してくださった際に「音声配信は親密空間であって、情報収集のためのものではない」という話をしてくれましたが、まさにそんなイメージです。
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あとは、焚き火だけじゃなくて、ドライブなんかもわかりやすいなあと思います。
まなざしは意図的に排除して、耳を傾ける空間になる。だからこそ、ドライブ中には、普段とは明らかに異なる対話や、コミュニケーションが生まれやすいんでしょうね。
ほかにも、農村などで行われている季節労働など、目だけが奪われるような単純作業を共に行うときに起きるコミュニケーションも、お互いのまなざしを外す効果を生み出していたんだろうなあと思います。
あと、きっと若い人たちにとってはTVゲームもそう。マリオカートのような対戦型のゲームが、未だに流行る理由もこのあたりにありそうだなあと思っています。
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で、この違いをより抽象的に表現すると、それはきっと「対象を外から観察するか」もしくは「対象の中に身体ごと入っていくか」の違いだと思います。
この点、最近読み終えた『日本問答』の続編である『昭和問答』という本の中に、非常におもしろい話が語られてありました。
今回も、松岡正剛さんと田中優子さんの対談形式となっていて、この本の中で「民藝運動」について語られてあったんですよね。
柳宗悦は「美」を対象化していたのだと。「無名の美」や「本来の美」というものを想定しながら、その対象となるものを外から評価していく姿勢が民藝運動の中で行われていた。
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一方で、その民藝家の代表例としてよく取り上げられる染織家の志村ふくみさんの場合は、「対象の中に身体ごと入っていく」存在だったんだと語られてあったのです。
以下は、田中優子さんの発言です。少し本書から引用してみたいと思います。
志村さんはそういう対象のなかに身体ごと入っていく。つまり、もっと芭蕉的なんです。松のなかに入ってしまう。向こう側に立ってしまう。そうして、自分がいまどうやって生まれかけているのかということを感じて、そのことを語ろうとする。そうやって光とか土とか水とかというものにどんどん入っていく。
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ちなみに、ここで語られている松尾芭蕉的というのは、芭蕉が弟子に説いた「松の事は松に習え、竹の事は竹に習え」という言葉を受けて、語られている内容です。
その意味するところは「対象を写すときは、先入観を捨て、ひたすらそのものと一体になれ」という教えを芭蕉なりに端的に伝えようとする言葉だったのだそう。
対象に“なりきる”姿勢それ自体が、外部を排しつつも、奥へ入り込む日本的感性の鍵であるということなんでしょうね。
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この一連のお話を、今日の主題である「耳を傾ける」と「まなざしを向ける」のコミュニケーションに当てはめると、相手を対象化しないこと、それが「耳を傾ける」という行動なんだろうなと思うのです。
それよりも、相手になりきる姿勢。
そのためには、逆説的なんだけれども、焚き火やドライブなどのように、「まなざし」を排除したほうがいい。
焚き火の前では、相手を対象化することができない。本能レベルで、相手よりも目の前の炎にまなざしを奪われる。
結果として、相手が物語る世界にたいして、スルッと身体ごと入っていける。
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この点、どうしても僕らは、相手を理解をしたいと願うとき、つい相手と「向き合う」ことばかりを意識しがちですが、向き合うのではなく、同じ方向を向いてみること。
何か共に単純作業をするでもいいし、散歩してみるでもいい。そうすることで、より相手の奥に入ることができる。
これは、目の前の相手だけではなくてきっと、オーディオブックなんかもそうで。
オーディオブックも、散歩しているときや何か単純作業しながら聴いているときのほうが、入ってきやすい理由はきっとここにある。
目で読む読書は、どうしても書籍を対象化して読んでしまう。でも、「聴く読書」では、その姿勢が、少しは和らぐということなんだと思います。
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最後に、繰り返しにはなってしまうけれど、「耳を傾ける」と「まなざしを向ける」そのどちらが良い・悪いの話をしているわけではありません。
そうではなくて、いま自分が挑戦していること、取り組んでいるものが、どちらの構造で行うべきなのかを理解しておくことが、大事だよねと思ったのです。
リアリティショーや動画のライブ配信が持つ没入感も、その特性を活かした素晴らしいコンテンツ。あとは今流行っている映画『国宝』なんかもまさに、役者としての立ち振る舞い、そのまなざしがひとつの主題となっていて、とてもおもしろい。
一方で、音声コンテンツには、耳を傾けることによって、焚き火という空間が人類最古の親密空間だったように、音声のみは原始的で本能に訴えかける力があるわけです。
だから大切なことは、いま自分が取り組んでいるコンテンツや関係性がどちらの性質を持つのかを深く理解し、それぞれの良さを最大限、活かすことだと思います。
言わずもがな、Wasei Salonは、まなざしを向け合う空間ではなく、耳を傾け合う空間でありたいと願っています。
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もちろん今日語ってきた判断軸は、ネット上のコンテンツ制作面だけでなく、僕らの日常生活のありとあらゆる場面に応用できる普遍的な視点だとも思います。
日々の生活の中で、どのような状況で「対象化」が必要であって、どのような状況で「対象の中に入り込み、その奥をついていく」ことが望ましいのか。
それを常に意識することで、より深く、より豊かな暮らしを味わうことができるんだろうなと漠然と感じています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。