昨日もご紹介した福田恆存の本『人間の生き方、ものの考え方』。

この本の中で、感情について、とてもおもしろいお話が書かれてありました。

それがどんな話だったかと言えば、何か感情的なことを言うと「それお前のは感情論だよ」と批判してくる人がいる。そして、感情論だと言えば、何かを批判した気になったひとは世の中には多いんだ、と。

でも、その人が本当に「理性の人」であるならば、感情というものはどうして悪いのかということを、それこそ理性的に証明して欲しいと福田は言います。

これはぐうの音も出ないほどに正論で、本当にそのとおりだよなあと思います。

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で、さらに福田は続けて、以下のようにも書いていました。

少し本書から引用してみたいと思います。

感情というものは人間にとって非常に大事であります。私たちの生活のうちおそらく八〇パーセントは感情で生きているので、あとの二〇パーセントが知性、それもなけなしの知性で生きているのです。それなのに、その知性の判断でなければ言うことを聞かないという。これほど愚劣な、いや、非理性的なことはない。何故そういうことになるかと言えば、自分たちの感情を軽蔑しているからです。


こちらも、本当にそのとおりだなと思いますよね。

感情こそが、人間の8割を形成している根本であり、でもそれを軽蔑するからこそ、短絡的に「感情≒悪」という図式となる。

そして、感情的な意見が出てきた時点で、有無を言わさずに理性でフタをしようとしてしまう。

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で、最近、ゲンロンカフェの有料動画を観ていたら、東浩紀さんが「今は欲望に振り回されている世界だ」と語られていて、そのお話になんだかとても強く膝を打ちました。

有料動画なのであまり具体的なことは言えないですが、今は動画もビジネスも、ポルノ的な中毒性に突き動かされてしまっている、と。

具体的には、ルッキズムや暴力、口汚く罵り合う喧嘩、スポーツなんかもそう。トランプ政権の立ち振舞なんて、まさにその最たる例です。

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そもそも、大谷翔平が野球で何百億も報酬をもらっていること自体も、おかしい。でも、ただ野球をやっているだけの人間が、何百億もらえるのは当然だと僕らは思い込んでしまっている。

じゃあ、僕らのその思い込みは一体どこからやってくるのか。

人間の欲望は金になるということだと思います。そして、それを何の違和感もなく受け入れているのは、つまり感情や本能に突き動かされてコンテンツビジネスが駆動してしまっている証拠でもあると思うんですよね。

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で「だから感情はダメなんだ、本能的欲望はダメなんだ!もっと理性を働かさなければ!」という結論が、一般的な結論だと思います。

実際、リベラルなひとたちは理性中心主義のようなものを掲げて、規範意識が高い人はそのように語るのだと思います。

社会を厳罰化する方向に向かわせようとして、それに合わせて自罰感情もドンドン強くなる。

でも、それもちがう、と僕は思います。

このあたりは「非常にややこしくて、ごめんなさい」と思うのですが、むしろ、理性において感情や欲望を抑えつけようとすることこそが、実は、社会を余計に感情や欲望の渦に巻き込んでいるのではないか。

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つまり、厳罰的なものと、欲望や感情を掻き立てるポルノ的コンテンツというのは、相容れないものであって、お互いを憎み合っていると思うかも知れないけれど、むしろ本当の現状は、それらはお互いに共依存関係にあり、蜜月関係にあると僕は思うのです。

言い換えると、僕らが「感情」を軽蔑し、毛嫌いし、それから目を伏せて、感情と正しく向き合おうとしないからこそ、かえって感情に振り回されてしまっているという皮肉な現実が、いま世の中に生まれているように僕には思うのです。

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この点、恋愛というのは陶酔状態だという話は、最近繰り返し書いていますが、結局、いま全人類はこの「陶酔」という現象に、やられているように思うんですよね。

「理性だ!理性だ!」ってなっているからこそ、その突然やってくるクラっとするような身体からのめまいに、コロッとやられてしまう。

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この点、以前Podcast番組「オーディオブックカフェ」の中でもご紹介した養老孟司さんと山極寿一さんの対談本『虫とゴリラ』の中に興味深い話が語られてありました。

それは、「酒も女もギャンブルも、実は、耳なんだ」という話です。

養老さんいわく、あるギャンブル好きの偉い人に『ギャンブルの本質って何だ?』って聞いたら、「それは、めまいです」と答えてもらったそうです。くらくらっとすること。

そして、マルティン・ルターの言葉「酒、女、歌、これを知らないやつは一生馬鹿で終わる」という言葉を持ち出して、これが日本だったら「飲む、打つ、買う」となるはずだ、と。

つまり、酒と女までは共通しているのに、博打がなぜか「歌」になっている。

そして、両者に共通しているのは『めまい』であり、それは「耳」なんだと。

歌とめまいはどちらも「三半規管」であり、「耳で恍惚となる」体験が、両者に共通しているのかもしれないと、おふたりは本書の中で語られていました。

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まさに今、ネット上で流行しているコンテンツ、具体的には、欲望に忠実なコンテンツや心地よい音声メディア、そしてネット証券なんかも含めたオンライン賭博に、多くのひとがハマる理由は、ここにある気がします。

理性でガードを固めているつもりが、ガラ空きの耳からクラっとやってくるめまい、その恍惚感にコロッとやられてしまう。

言い換えると、目はバキバキに酷使して理性的であろうとする一方で、耳からやってくる「めまい」や「陶酔」には驚くほど無防備な状態。

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だとしたら、僕らが本当に取り組むべきは、正しく感情や欲望に出会い、向き合ってみること。

ここで、思い出されるのが藤田一照さんのブッダにまつわるお話です。

以前もご紹介したことがあるけれど、改めて藤田一照さんが書かれた『学びのきほんブッダが教える愉快な生き方』という本から少し引用してみたいと思います。

悪魔の執拗な妨害を乗り越えて覚りを開いたあとも、悪魔は繰り返しブッダの前に現れます。それは、ブッダが『悪魔と出会わない超人』ではなく『悪魔ときちんと出会える人間』だったからです。悪魔というのは、人間を道から踏み外させる衝動、いわゆる煩悩のことです。(中略)悪魔が現れるということは、そういう微細な煩悩の動きに『気づける』ということです。


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つまり、正しく悪魔(煩悩≒感情や欲望)に出会うことが大事なのでしょうね。

ありとあらゆる炎上案件や、社会の中でのキャンセルカルチャーを見せつけられて、僕らは悪魔(欲望)とは絶対に出会ってはいけない、目を合わせてさえいけない、目が合ったら殺されると思って怯えているから、理性でガチガチに固めようとする。

でもそんなときほど、耳はガラ空きなわけです。そして、その耳からくるクラっとする陶酔状態に見事に流されてしまう。

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だとすれば、感情と理性、そのどちらもほどほどにすることが大切なはずで。

そうすれば、感情を過度に軽蔑もしなくなるし、理性を過度に尊ばなくもなる。

その架橋こそが大事だよね、と思います。

福田恆存も、先程ご紹介した文章に続いて以下のように書いていました。

理性と感情の間に、お互に協定を結ばなければならないということなのです。感情というものはくだらないもの、それは無視出来るものというふうに考えることがいけないのです。そのような判断を下す理性というものは、実は非常にひ弱な理性なのです。だから感情というものをもっと尊重しろというのは、もっと理性的に強くなれと言うことだと言えましょう。少しでも理性的に考えるようにすれば、自分たちがいかに感情の中に生きているかということもわかってくると思うのです。


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感情をなきものとしない、感情こそが人間の8割の部分であって、そこに正しく向き合うこと。

三大欲求をはじめ、動物的本能心からくる欲望を、正しく活用するという中村天風の意見なんかも、きっとこういうことだと思います。


そして、その本能的な感情が持っている力を、理性によって適切に導いていく。そうすることで、本当の意味で過度に欲望に振り回されない生き方もできてくる。

禅の教えの中で描かれる「十牛図」は、牛(≒感情や欲望)と少年(≒理性)の関係において、それを本当にわかりやすく僕らに教えてくれているなと思います。

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繰り返すけれど、理性で「ダメだ、ダメだ」と思えば思うほど、Netflixのオリジナルコンテンツのような、徹底的に感情ハックが計算し尽くされたコンテンツビジネスに、僕らは一切抗えなくなる。

具体的には、強いもの、暴力的なもの、喧嘩やルッキズムなど、そういうありとあらゆる人間的欲望にコロッと、陶酔させられてしまう。

そうじゃなくて、ちゃんと感情と理性を架橋しよう。この視点が、本当にいま大事なことだなと思います。

まさに「煩悩即菩提」みたいな話でもあります。

もちろん、Wasei Salonも短絡的に感情を否定せず、正しく悪魔と出会える、そんな方法を問い続けながら、それぞれに模索していける場にすることができたらいいなあと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。