突如、インボイス制度の問題から端を発した「クリエイターは、運か、才能か?」という話が、SNSを中心に盛り上がっているように思います。

そのうえで「多くのクリエイターには、チャンスが多いほうがいいのか否か?」という問題に関しては、内田樹さんのこのツイートの内容に尽きると個人的には思っています。


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で、僕が今日このブログの中で、改めてちゃんと整理しながら考えてみたいのは、このような議論の中にいつも内在している落とし穴についてです。

このような問題は、常に形を変えて、何度も何度も繰り返されていているように思います。

今回も、たまたま発端はインボイス制度だったというだけで、これからもずっと繰り返されていく。むしろ、これから格差社会になっていく世の中ではより一層頻繁に話題に上がる議論だと思います。

「常にわかりやすい二項対立を作り出されて、そのどちらが正しいのか?」というような形で繰り広げられる。

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とはいえ、何度も繰り返されるということは、「どちらも同程度に正しい」という結論に尽きるはずなのですよね。(もしくはどちらも同程度に間違っている)

そうじゃなければ、何度も同じような議論が繰り返されるわけがないのですから。

思うにこれは、個人の実存的な問題として、そしてもう一方は、社会の構造的な問題として、それぞれに「正しい」のだと思います。

だから、僕らが取るべき行動は、そのことを粛々と認めて「自分には厳しく、他人には優しく」というスタンスを取るだけだと思います。(もちろん、これもあくまで僕の意見ですが)

それが唯一の自己防衛策でもあるはずですし、唯一の社会全体を良くしていく方法のひとつでもあると思います。

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しかし、この議論を自分にとって都合よく受け取りたいと願うがゆえに、全く逆の意味で捉えるひとが、世間には本当に多い。

具体的には「他人に優しくするんだから、自分にだって優しくしてもいいよね」や「自分に厳しくするんだから、他人にも厳しく接するのは当然だろ」というようなひとたちが、本人の意識・無意識関係なく後を絶たないわけです。

ここが今日、本当に強く強調しておきたいポイントです。

つまり、個人の問題を社会にも当てはめようとするひとたちと、社会の問題を個人に当てはめようとするひとたちが、必ず一定数生まれてきてしまう。

そこを一緒くたにとらえて考えてしまうわけですよね。

前者は、むき出しの個人主義を盾にして、才能のない個人は排除されて当然だ!というふうに主張するし、後者は、そのような弱い者いじめをしないかわりに、そんな弱いものに「自分自身」まで含めて、努力をしない怠惰な自分を都合よくまるっと肯定してしまう。

どちらも言っていること自体は決して間違いではないのだけれども、でもそれだと、私の人生も、社会もどちらもうまくまわっていかないわけですよね。

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そしてそうやって、二項対立に目を向けさせ「目の前の議論を、ただただ自分にとって都合のいいように解釈しようとする自分の頭で考えようとしないひとたち」をカモにするように主張する人たちがなんと多いことか。

いちばん厄介なのは、彼らのような詐欺師のようなひとたちの存在なのだと思います。しかも大抵の場合は、そこにハッキリと悪意があってやっているのだから、より一層たちが悪いなあと思います。

「構造がこうなんだから、あなた達は悪くありませんよ」「もしくは構造がこうなんだから、あいつらは全員自己責任だ」というような形で二項対立構造を煽り、議論を白熱させていく。

非営利組織も、営利組織も真反対の存在のように思えて、やっていることは基本的には同じで、そのような状態を、両者で協力して作り出してしまう。

彼らがいつだって敵対関係でありつつも、まるで両者が協力しているように二項対立を作り出すようにみえるのは「どっちが正解なのだろう?」と迷っている観客たちを何よりも熱狂させて、自分たちにとって都合の良い状態をつくりだし、それぞれに洗脳したいからにほかならないわけですよね。

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そして、2023年現在は「才能よりも運である」というような個人の力ではどうにもできないという事柄に問題の原因を求める、ある種のシニカルな冷笑的な態度のほうに分があるような状態だと思います。

それも当然ですよね、スキルや技能、センスをどれだけノウハウ的に学んで磨いてみても、社会全体がなかなか上向かずにいることで、それぞれの個人も思うように結果が出ない社会になっているんですから。

つまり単純に自己投資をしてみても、それに見合った対価がすぐに得られるというような時代じゃないわけです。

また、ご自愛系が受け入れられる理由も全く同じ。本来、これは他者に対しての寛容なスタンスを保つ必要があるよねという話であって、自分を甘やかして良いという話ではない。

いや、厳密に言えば甘やかしていいけれど、それはそれ相応の因果応報のことが起きるよという、その責任と隣り合わせであるはずなのです。

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きっと、もう少し年数が経過して、その裏でも淡々と自らの技能を磨いていたひとたちが、新たな社会状況の中で結果を出すようになれば、その甘い言葉に騙されて、単に個人の努力を怠ったひとたちが、ことごとくバツの悪い思いをするようになるのは間違いないはずです。

今の若手が活躍するスポーツの世界なんかを見ていれば、それはもう火を見るよりも明らか。これがあと5年〜10年もすれば、少しずつビジネスの世界でも彼らと同じような若手が必ずあらわれ始める。

その時に「優しい世界」であるべきだと訴えつつ、その論理の中に自分自身も含めてサボっていた人たちは、自らの居場所を同時に失う。

もちろん、そうなるとまた、努力して結果を出した彼らに続けといわんばかりに「自己啓発ブーム」がやってくるわけですが、もちろんみんながそうやって一斉に努力すれば、過当競争になって、ひとりひとりの結果は出にくい世の中になっていくわけですから、また同じように振り子は逆に振れるわけです。

歴史はずっと、この繰り返し。

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詐欺師みたいな人たちの言説に「そーだそーだ!」と言いながら列をなしてついていくと、自分で考える必要もなくなるし、歯に衣着せぬものいいい自体がとても気持ち良く感じるものです。

そして、自分自身も時流に乗っているよう感じられて、なんだかデキる人間だと誤解することもできてしまうのですが、そこからドンドン抜け出せなくなってくる。

そうすると、常に声の大きい声のひとたちの主張の内容が気になってしまう。いつも、自分の決断に自信がないわけですから当然です。

もちろん、彼らはいつ何時であっても「自己責任」という伝家の宝刀があるから、彼らが主張した言説の責任を絶対に取ってはくれません。

彼らは彼らにとって、自分にとって都合の良い状態を淡々と作り出しているだけですからね。

そして、見る人が見れば、僕もたぶん同類だと言われてしまうことも、重々自覚しています。だからあまり今日の話も、あまり真に受けないでください。

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最後に、今日の話は誰が悪いという話でもなく、基本的にはそういう構造にあるということを粛々と認識しておきたいよね、というお話です。

そのうえで、自分という個人として、一体どのように行動を取るべきなのかを淡々と考えて行動していきたい。まわりに流されることなく、です。

本当に大切なことは、クリエイター自身がしっかりと自らの信念や価値観を持ち、それを守り抜く姿勢が今強く求められるのだと思います。

それが、本当の意味での「自己責任」であり、社会との関係性を築く上での大切な要素となってくるはずです。だから、自分にはちゃんと厳しく、その上で徹底的に他者に対しては優しく寛容でありたいものですよね。それが巡り巡って結果的に情けは人の為ならず、となるわけですから。

ここはどんな状況下においても、決して見誤りたくないスタンスだなと。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。