※本文の途中から、映画『ちいかわ』のネタバレに触れています。未見の方はご注意ください。

数年前、「ちいかわ」が世間で流行り始めて「一体何がウケている原因なんだろう?」と、それが知りたくて単行本で初めてちいかわを読んだ時の衝撃って、今でもなぜだか忘れられません。

僕が、最初に思ったのは、なんだかずっとお互いにケアし合っている物語だなと思ったんだよね。

笑いとか一切ない。あるとしても、非常にシュール。

それよりも「この生きにくい世の中を、共に生き抜いていこう」という意志みたいなものがほんとうに強く伝わってきたし、それが現代で、流行る理由なんだろうなあと、そのときに思ったんですよね。

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 ところが、いま話題の映画版を映画館に観に行ってみたら、映画版は少し冷たかったんです。


Twitterにも、その感想は投稿してみました。


映画版を観終わって真っ先に頭に浮かんだのは、意外にもドストエフスキーの『罪と罰』。

この映画には、色のない「その他大勢」のモブキャラがたくさん出てきます。僕ら観客は、当然のように彼らを背景として処理する。

名前も色もある主人公(ちいかわのキャラクターたち)にはちゃんと個性がある一方で、モブの側にはそれがない、と無意識に思い込んでいる。

ところが映画版の物語は、その僕らの思い込みを上手に逆手に取って、見事に終盤でひっくり返してきます。

モブにしか見えなかった存在にも、当然ながらそれぞれの事情がある。

過去があり、大切な誰かがいて、恐怖があり、そして人には決して言えない「影」がある。

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また、大事なのは、彼らに途中から人格が生まれたわけではない、ということです。

最初からあったのに、こちらが見ていなかっただけ。

モブとは「物語を持っていない人」のことではなく、「その人の物語を知らない」という状態につけられた「自分たちの名前」なのだと思います。

つまり、色のないモブキャラ≒色彩のあるインフルエンサーではなく、色のない匿名アカみたいなもので、つまりそれは読者であり、観客の僕らひとりひとりのことを指している。

そして映画は途中から、そのモブの影を、つまり誰かを想うがゆえに犯してしまった「罪」を真正面から描いていきます。

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で、驚くのはここからなんです。

その色のないモブの罪(影)は、ちいかわの側には、完全にバレているという構造なんですよね。

そして普通だったら、罪を知ってしまった側の物語文法は、ふたつにひとつです。

裁くか、救うか。その二択。

具体的には、告発して正義を執行するか、寄り添って改心と再生の物語を用意するか。

でも、ちいかわは、罪を知りながら、裁きもせず、救いもせず、改心すら求めない。

相手の課題には、決して踏み込まない。他者の課題と割り切り、突き放すような態度。

初めて単行本を読んだとき、あれほど「ケアの物語」だと感じた作品が、なぜここまで冷たいのか。

僕はしばらく、この矛盾が解けませんでした。

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でも、実はこれこそがちいかわ流の「ケア」であり、現代に響く圧倒的な「優しさ」なんだろうなあと思ったんですよね。

この点、僕らが一般的に「優しさ」と呼んでいるものは、だいたいの場合相手を理解し寄り添うこと、そして、改善を促し、救ってあげることを指します。

具体的には、困っている人がいたら手を差し伸べ、間違っている人がいたら正しい道を示すわけですよね。

他人の生き方に圧倒的な善意から、よくも悪くも、口を出す態度。それが一般的な「救済」というものだし、道徳的な態度だと、僕らは幼い頃から教わってきました。

でも、これは言ってみれば、太陽的な優しさです。

強い光で相手の全体を照らし出し、影を見つけて、その影を一生懸命に消そうとするタイプの光。

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でも、太陽には避けられない性質があります。

それは、光が強ければ強いほど、影は逆説的に濃くなるのです。

正義の声が大きい時代ほど、人は自分の影を必死に隠すようになる。

現代では、SNSでの断罪も、善意のアドバイスも「あなたのためを思って」も、右派の道徳も左派の正義も、構造としてはぜんぶ同じ太陽の光になり得る。

良かれと思って照らされる光も、照らされる側からすれば、影を持っていること自体が、許されない世界線になっていく。

でも、否応なくひとは影は抱えてしまう。

それは、これだけ社会の界隈化が進み、匿名化が進み、共同体が破壊され、自分の力だけで生きていかなければいけない状態においては、なおのこと。

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今の時代は、スマホやSNS上でいくつもの人格が使い分けられるし、使い分けるのが当たり前でもあります。

そんな現代社会の中で育てば、そこからどうしても生まれてしまう影と、その影による苦しみは、否応なく誰もが抱えてしまうはずです。

一般論で語られるような、綺麗事だけでは済まされない。

みんなそれぞれに何かしらの後ろめたさを抱えながら、生きている。でもそれは、クリーンな社会のなかでは存在しないことにしなければいけない。

表の顔と裏の顔を切り離す必要があって、そこにこそ「苦しみ」が生まれている。

北風と太陽の寓話でいけば、太陽でさえも、僕らにはちょっと重たいわけですよね。日光が強すぎて、酷暑すぎる。

いま僕らが生きているのは、まさにそういうものすごく息苦しい時代なのだと思います。

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そう考えてみたときに、映画の冷たさの見え方が反転しました。

繰り返しますが、ちいかわは、「罪」を知らないのではありません。ちゃんと全部知っている。

「輝かしい君に『罪』なんてあるわけがないよね!もし、あるんだったらちゃんと懺悔して、はやくまわりのも許してもらおう!」といった形で、ディズニーキャラクター的に、ひどく道徳的に寄り添ってくるわけではない。

そこにある傷のことも、影のことも、罪のことも、誰よりもちゃんと深く理解している。

全部、ちいかわには、見えているし、見えちゃっている。

そのうえで、ちいかわは、太陽になることを積極的に拒否しているんです。

裁かないし、激詰めしないし、もちろん、改善さえも促さない。

ただ「まあ、生きていれば色々あるよね」という態度で、隣に、共にいることを示す。そして、その一言さえ、決して口にしない。

「いつまでも 絶えることなく 友達でいよう」と、謳うだけ。「いなくならないから」と。

それは「救済」というよりも、圧倒的な「苦の肯定」です。

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これは無関心とは、似ているようでまったくの逆の態度だなと。

無関心は「あなたの事情など知らない。たとえ知っていても、私には関係がない。それはあなたの課題だ」という話なんですが、ここで描かれているのは「あなたに事情があることは分かった。でも、その先をわたしが決めることはできない」という態度ですから。

ものすごく紙一重ではありつつ、ここにはほんとうに雲泥の差がある。

まさに、月とすっぽんです。

大事なことなので何度でも繰り返しますが、このクソみたいな現代に生きていれば、人間誰しも、影や罪がある。

そのことに対して「仕方ないよね、苦しいよね、辛いよね」という苦の肯定がまずあって、そのうえで、苦を抜き、楽を与えようとするのが、ちいかわ的態度。

つまり、ちいかわ的「抜苦与楽」です。

単行本で受け取ったあの「ケア」と、映画で感じたあの「冷たさ」は、矛盾していなかった。完全に同じものの、別の顔だったのだなあと思います。

むしろあの冷たさこそが、ケアのもっとも成熟した形だと受け止められている感じさえあるし、だからこそ現代の若い子たちは、無意識レベルで、ちいかわにここまで反応しているんだろうなと感じます。

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で、ちょうど映画を観終えた翌日に、NHK「100分de名著」の親鸞『教行信証』の回を観ていて、そこで初めて知った言葉があります。


それが、月愛三昧(がつあいざんまい)。

お釈迦さまが、深い罪の意識に沈み苦しむ人を癒やすために入ったとされる、月の光のように優しく穏やかな慈悲の瞑想のことだそうです。

その光は、太陽ではなく、月なんですよね。

罪を、太陽の光で照らし出して暴こうとするのではなく、月の光のように、静かに、影を影のままにして包み込む。

すべてを知っていて、すべてを見ていて、それでも暴かない慈悲のこころが、この月愛三昧という言葉に込められている。

ちいかわの倫理は、どちらかと言えば、この「月愛」のほうなのだと思います。

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ここまで書くと、いかにも観念的な話に聞こえるかもしれません。

でも僕は、この「月愛」が、現代でたしかに求められている現場を、実際に自分の目で見た気がしました。

それが、映画館のグッズ売り場のあの賑わいなんです。

「ちいかわ」のどのキャラのぬいぐるみを買おうかと、真剣に悩んでいる子たちが映画館にはたくさんいました。

その顔をぼんやり眺めていて、ふと思ったんです。

これは、好きな仏像を選ぶときの顔に似ているんだろうなあ、と。

棚に並んだキャラクターたちのぬいぐるみが、僕には菩薩が並んでいるように見えました。

だとすれば、あの子たちが選んでいたのは、単なるキャラクターグッズではないのかもしれない。

自分を裁かず、激詰めせず、影ごと受け止めて、ただただ黙って隣にいてくれる存在。

それを、自分の手でひとつ選び抜いて、ぬい活的にカバンに付けたいと願うのは、至極当然のことだよなと思ってしまう。

現代における「推し」とはつまり、自分に必要な慈悲の形を自分で選ぶことでもある。

人間が求めている慈愛や慈悲の形は、実は昔からほとんど変わっていないのだと思います。変わったのは、その器だけということなんでしょうね。

かつては、仏堂に並んでいたものが、いまは映画館のグッズ売り場の棚に並んでいる。

そして、いま実際に機能しているこちらこそが、現代の救済であり、「抜苦与楽」の真の姿になっているのではないかと割と本気で思ってしまいます。

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僕らはみんな、誰かの物語の中では、色のないモブとして生きています。

名前を知られず、事情も知られず、背景として通り過ぎていく。それが世界の大半の時間です。

そのうえ現代は、そんなモブの影ひとつひとつにまで、太陽が向けられてくる時代でもあります。

正しさの光が隅々まで届いてしまい、小さな影すら許されにくくなっている。

さらに、そこにいまAIが突如あらわれて、ほんとうに文字通り、いくらでも「めくられる」。

影や罪は、明確に存在自体が許されないものになりつつあります。

だからこそ逆説的に、影を影のままにしてくれる月の光を、人々は物語の中に強く求めているのだと思います。

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そして、何よりすごいのは、ちいかわ作者のナガノさんがこうしたことを、ただの一度も説明していないことです。

あくまでご本人も、匿名キャラを貫いて、メッセージとして語らず、教訓として掲げず、ただ物語の中の態度として、キャラクターの造形として、月愛を描き続けている。

まさに現代に生きる仏師だなあと。

この倫理は、ものすごく日本的だし、そのほうが若い子たちにとっても本物に感じてしまう理由なんかも、よくわかる。

こんなふうに世界を捉えている作家の作品が、いま最も多くの人に愛されているのも、時代の写し鏡のようで、非常に興味深いなあと。

本当にとても学びになる映画体験でした。時代ごとに人気になる作品は、かならずそれ相応の理由があるなと改めて思います。

ご興味がある方は、ぜひ映画館で実際に映画『ちいかわ』をご覧になってみてください。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。