先日発売された、養老孟司さんの『自分を知りたい君たちへ』という本を読んでいて、思わず本を読む手を止めて考え込んでしまった話があります。

動物園の動物は、野生よりも安全で、餌にも困らないはずなのに、寿命が短い。なぜか。「選択の自由」が少ないからだ、と養老さんは書きます。

そのうえで、これは人間も同じであって、上級公務員と下級公務員を比べると、地位が高いほうが健康状態がいい。

その理由は、地位が高いほうが「裁量権」が大きいから。つまり自分で選べる範囲が広いからです。

裁量権のない仕事をやらされている人は、明らかに勤務中の血圧が高いのだそうです。

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しかも、さらにもっとおもしろいのはここからであって、客観的な裁量の大きさよりも、「自分が裁量権を持っている」と本人自身が思えているかどうかのほうが、もっと重要らしいです。

ここで養老さんが持ち出すのが、あの有名な秀吉の草履取りの逸話。

草履取りという立場そのものは、当時の身分が低い秀吉には選べない。でも、その草履をただ差し出すのか、懐で温めてから信長に差し出すのかは、自分の裁量で決められる。

つまり、ひとは与えられた役割の内側に、自分の裁量をいくらでも見つけることはできる。その裁量権の幅というか余白みたいなものを自分で見つけて来て、その中でできることを選んだからこそ、秀吉は秀吉たり得たんだろうなあと。

つまり自由とは、選択肢が多いことではないわけです。

どうしても僕らは、裁量権の大きさは、客観的に確定してしまうものだと思いがちだけれども、実際にはそうじゃないということです。

どんな制約のなかにも、自分で決められる裁量を発見できるのが、人間の「真の自由」でもある。

逆に言えば、人間に与えられている自由とは、その程度の自由とも言えそうです。でもそこに雲泥の差がある。

これは過去に何度もご紹介してきた「刺激と反応のあいだには無限の自由が存在する」あの話と同様で、どれだけ狭くても、自分で選べる「裁量の自由」の隙間は、必ずいつだって残されているということです。

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じゃあ、次に問題になるのは、僕らはその裁量権を日々ちゃんと扱えているのだろうか、という問いだと思います。

ちょうど並行して読んでいた神戸大学大学院教授の平芳裕子さんの『何がダサいを決めるのか』に、ドキッとする指摘がありました。

僕らは毎朝、自分で服を選んでいると思っているわけです。制服があるわけでもないし、誰かに服装を命令されているわけでもないですよね。

でも実際には、「格好良くなる」「美しくなる」ことよりも、「ダサくならない」「浮かない」「人となじむ」ことばかりに気を配って服を選んでいるひとが、世の大半だそうです。

そして「そういうものだから」と自分を説得して、惰性のように毎日浮かないための服、ダサいと言われないための服を着て生活をしている。

知らず知らずのうちに、社会の常識や固定観念に囚われてしまっているわけですよね。

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つまり、誰にも何も命令されていないのに、選択肢はあらかじめ狭まっている。

しかも本人は、それを自分の「自由な選択」の結果だと思っている。

養老さんの本の中には、また別の文脈で熊谷晋一郎さんの本の書評も合わせて掲載されていて、これがまた見事に、この洋服の規範意識の話とつながります。

脳性麻痺の医師である熊谷さんの目から見ると、「普通の人」の動きとは「規範化された身体の動き」のことを指すそうです。

そして普通の人は、自分の身体が規範化されていることを、ふだんまったく意識していない。

規範は、頭ではなく身体に染み込んでしまっているのだ、と。

そして、その規範からズレている人間を観ると、忌避反応を起こしてしまう。普通の人は「障害」のある人を目にしたとき、どこか「目をそむけたくなる」気持ちが起こるのはそのためだと養老さんは書いていました。

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だから、障害者は、かわいそうで哀れな人たちだと世間からは思われてしまいやすいということなんでしょうね。

極端に単純化すれば、身体の規範から外れ、空気を読みたくても読めないかわいそうなひと、になってしまう。

「規範に外れたものを排除する。それは社会的にはごく当然の心情であろう」とも本書には書かれていました。

つまり、空気とは「読む」ものではなく、毎朝、身体に「着てしまっている」透明な洋服みたいなものなのだと思います。

だから、意識で抗おうとしても、決して抗えない。僕らは日々それを着ていることにすら、気づけないわけですから。

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で、この養老さんの本には、もうひとつ忘れられない話があります。

日本の大学生に「自分で決めたいこと」と「自分で決めたくないこと」を紙に書き出してもらうと、決めたくないことのほうが、決めたいことの二倍になる、と。

そしてアメリカ人だと、これが見事に逆になるのだそうです。なんとなく想像がつく話ですよね。どこまでも個人主義を貫く、とてもアメリカらしい結果でもある。

ただし、この日米の比較に対して「日本人は決断力がない」と読むのは、たぶん少し違っているはずであって。

なぜなら、自分ひとりで決めれば、その責任もひとりで引き受けなければならなくなるからです。

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具体的には、会議で誰も明確に賛成していないのに、いつのまにか方針が決まっていて、「そういうことになった」と表現される。

誰が決めたのかは、誰にもわからない。でも、「決定」だけは明確に存在している。

これは、美しいほどに責任を関係や状況の側にも分担してほしいという、日本的な「甘え」の構造です。

とはいえ、その「甘え」のおかげで平時には、この仕組みは驚くほどなめらかに機能してくれる。

極力当事者間の摩擦を抑え、誰も勝者にも、敗者にもしないわけですから。

問題は、誰かが明確に「否」と言わなければならない場面であって、この仕組みの際に、どう振る舞うかです。

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で、勘の良い方はすでにお気づきだと思いますが、ここから太平洋戦争の話につながります。

先日観た映画『開戦前夜』は、まさにそのような極限を描いたような作品でした。

この映画は、作家・猪瀬直樹さんの『昭和16年夏の敗戦』を原案としていて、1941年4月、真珠湾攻撃の8ヶ月前に官僚、軍人、民間から選び抜かれた若き30代のエリートたちが、内閣総理大臣直轄の「総力戦研究所」に集められるところから始まっていきます。

その極秘組織としての彼らの任務は、模擬内閣を結成して、日米が開戦した場合の行方をシミュレーションすること。

で、彼らは国家機密レベルのデータを駆使して、当時最高の頭脳をかけ合わせて激論と推論シミュレーションを重ね、ひとつの結論に辿り着きます。

「日本は、アメリカと戦争をすれば必ず負ける。それは手元にあるデータを見れば明らかで、絶対に覆すことができない真実である」と。

しかも実際の歴史において、この予測は原爆投下だけを除けば、その後の戦局をほぼ言い当てていたと言われています。

それでも、日本はアメリカとの開戦の道を進んでしまいました。

若き天才たちがデータを分析して導いた「正解」は、時代の得体の知れない空気に、のみ込まれてしまったということです。

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この映画を観ながら、僕は現代と見事に重ねてしまったのですが、結局のところ、総力戦研究所とは、1941年の日本にすでに存在した「人力のAIシステム」だったんだろうなあと思います。

膨大なデータを入力し、何度もシミュレーションして推論をし、正解を出力するような機械としての役割。

僕らはいま、AIの性能の話ばかりをしていますが、正解を出す機械のような頭脳なら、日本は85年前から既に持っていたのです。

そう考えると、当時の日本に足りなかったのは、機械の性能や、そのためのデータの量だったとは決して言えないはずで。

むしろ、その答えを「自分の決定」として引き受ける主体の方です。

そして、空気こそが日本を支配し、誰も自分で決めなかった。

誰も決めていないのに、戦争だけが始まってしまって、最悪の結果が、81年前の8月に次々に現実のものとして、実現してしまったわけです。

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そして、翻って現代は、AIがドンドン社会の中に浸透しつつある。

いまAIを使ったコミュニケーションが、どこか「感じ悪い」とされているのも、片方だけがAIを使っているからだと思うんですよね。

でも、双方がAIを介することが当たり前の前提となったら、一体どうなるのか。

「それは、AI同士が調整した結果だから」と割り切り受け入れられる国民は、日本人をおいてほかにいないんじゃないかと思うのです。

よくも悪くも、個人主義を内面化しきらなかった、この国だからこその帰結でもあり、それが果たして、吉と出るか、凶と出るか。

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もちろん、吉の面は、はっきりしていると思います。すべてが摩擦なく、円滑に進んでいく。

そこで個人主義を貫き、我を通すような人間は、ことごとく村八分にされていく。

でも、凶の側面は、もう少し静かに、でも着実にやってくるような気がしています。

これまで曖昧だった空気を、AIは見事にすべて言語化して最適解を提示してしまうわけですから。

「一般的にはこちらが無難です」「この表現は角が立ちます」と言いながら、すべて可視化され、平均化され、推奨として提示されてしまう。

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しかも、ここには簡単に割り切れない、ねじれた事実もあります。

先程ご紹介した養老さんの本によれば、日系の子どもは、自分で選んだ課題よりも、母親が選んだ課題のほうが成績がいいのだそうです。

裁量権を手放してしまったときのほうが、実際に機能してしまう場合があるということです。

だからこの話は、「自分で決めろ」という説教では終われない話であることが、ほんとうに厄介な点だなと思います。

だって、自分で決めないほうが、明らかにうまく機能してしまう場面もあるのだから。端的に言って、そのほうが結果が出る。

そして、何を隠そう、それこそがこの国日本の圧倒的な強み、でもあるわけです。

明治維新後の日本、高度経済成長期の日本だって、この日本人の滅私奉公的な特性ゆえに、目覚ましい発展を遂げた。

とはいえ、80年ごとに、それは覆される。同じ特性の表と裏によって、です。

そして、いまはちょうど、戦後80年を過ぎたところです。

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AIに文章を書かせてもいいと思いますし、判断材料を出させてもいい。人間関係の摩擦を調整させてみるのもいいと思います。

僕だって、AIを使わない選択肢なんて、この時代にはもはや一切ないと真剣に思っている。

でも最後に「これはAIが決めたことだから」と言った瞬間、僕らは責任と一緒に裁量権もきっと手放すことになる。

そして、トコトンそんな「空気」を突き詰めていった日本が、一体どうなったかは火を見るより明らかだなあと思います。

AIが決めたことにするのか。AIを使って、自分が決めたことにするのか。

そのわずかな違いに、これからの僕らの自由と、その自由の先にある命運が決まるんだろうなあと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。