先日このブログでも取り上げた、いま公開中の映画『開戦前夜』。

参照:空気を読むAIと、決めたくない日本人の相性が良すぎる。

本当にとってもおもしろい映画です。令和の戦争映画のなかで一番好きな映画と言っても過言ではないぐらいの傑作でした。

改めて内容に触れておくと、1941年、総力戦研究所に集められた若きエリートたちが、データを積み上げて「日本必敗」という結論を導き出しながらも、国全体は開戦へと向かっていく、そんな物語です。

で、前回は「総力戦研究所は人力AIだったのではないか」という視点から書いたのですが、実はもうひとつ、観ながらずっと気になっていたことがありました。

それは、ベテラン軍人たちを演じているベテラン俳優さんたちの演技についてです。

國村隼さん、佐藤隆太さん、江口洋介さん、佐藤浩市さん。みなさん本当に素晴らしい演技で、圧巻としか言いようがありません。

でも観ながら、どこかほんの少しだけ、「胡散臭さ」のようなものを感じてしまった自分がいたんです。

決して、演技が下手だという話ではありません。むしろ、これ以上ないほどに抜群に巧い。

だからこそ、この違和感はいったい何なのだろうかと、映画館を出たあとも、ずっと考え込んでしまいました。

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ちなみに、若手エリートたちを演じる俳優さんたち、池松壮亮さんを筆頭に、仲野太賀さん、中村蒼さん、三浦貴大さんには、まったく違和感を覚えませんでした。

彼らが劇中で信じているのは、客観的なデータであり、物量の比較であり、合理性です。

つまり、極めて現代的な価値観なんですよね。

現代を生きている若手俳優さんたちは、自分たち自身の価値観をそのまま素直に延長していけば、あの役柄にたどり着ける。

だからこそ、あんなにも自然に見えたのだと思います。

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では、なぜベテラン軍人たちのほうは、どうしても胡散臭く見えてしまうのか。

しばらく考え続けて、僕がたどり着いた仮説は、現代を生きる世代には、「大和魂」を現在形で信じることが、もう原理的にできないからではないか、と。

これは、俳優さん個人の内面がどうこうという話ではありません。

俳優というのは本来、自分が信じていないものだって、演じられる職業のはず。

殺人犯を演じるために殺人を経験する必要はないし、王様を演じるために本物の王様である必要なんかもまったくない。

でも今回の違和感の正体は、そういった「行為」ではなく、もっと大きな「世界像」のほうなんですよね。

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僕らは「大和魂」という言葉の意味なら、十分によく知っています。

歴史系の本も読めるし、当時の新聞も、軍人の日記なんかも、ネット上でいくらでも読める時代です。

いまならAIに、当時の資料を人間以上の量で読み込ませることだってカンタンにできてしまう。

それでも、「物量で圧倒的に劣っていても、精神力によってもしかしたら勝てるかもしれない、いや絶対に勝てるんだ!なぜなら、日本には大和魂があって、神風が吹くのだから」という考え方が、必ずしも荒唐無稽には聞こえなかった世界を、僕らはもう生きることができません。

なぜなら、もう惨憺たる日本の敗戦の結果を、現代人は完全に知ってしまっているから。

東京大空襲も、沖縄戦も、原爆も全部知っているわけですよね。

そして、精神論が悲惨な結果を招いたのだという、歴史の答え合わせまで、すっかり済ませてしまっているわけです。

答えを知ってしまった人間は、まだ答えのわからなかった時代の「今」を、もう一度生き直すことはできないのだと思います。

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この点、認知科学の世界に「記号接地問題」という言葉があります。

言葉の意味というのは、別の言葉の定義をぐるぐると参照しているだけでは成立しなくて、最終的にはどこかで、身体的な経験に結びついて(接地して)いなければいけない、という問題です。

AIが出てきてから、頻繁に語られる様になった話でもあります。

身体を持たないAIは、記号接地していない、と。

それを踏まえて考えると、あの映画で起きていたことは、ある意味で「時代の記号接地問題」だったんじゃないのかなあと。

記号は残る。ただ、その記号が本当に意味を持っていた生活世界のほうは、もう完全に失われてしまっていて、僕らには、当時の身体感覚を持つことができない、と。

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で、さらにそう考えると、最近戦争関連の本を読み漁りながら、語り部の方々のお話を見聞きしていて感じていたことの意味なんかも、少しだけはっきりしてきました。

戦争については、本当に膨大な資料が残っています。

それでも、体験者ご本人の話を聞くことの価値は決してなくならない。

なぜかと言えば、語り部の方々が伝えてくださっているのは、「何が起きたか」だけではないからですよね。

そのとき、何を怖いと思ったのかや、何を普通だと思っていたのか。いまから見れば明らかに異常なことを、なぜ当時は誰も異常だと思わなかったのか、などなど、

歴史の当事者だけが持っているのは、事実そのものではなく、その事実が置かれていた「当たり前」の感触のほうなのだと思います。

それっていうのは、あれほどのベテラン俳優さんたちでさえ、完全には埋めきれないかもしれないもの。

でも、当時を生きた方々は、それをいまも身体の中に、明確に持っていらっしゃるわけです。

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で、ここまで考えてきて、ふいに怖くなってしまいました。

これって、僕らにももう始まっているんじゃないか、と。

先に断っておくと、戦争を経験したことと、インターネットやAI以前を経験したことの「重み」を比較したいわけでは決してありません。

そこを同列に並べるつもりは毛頭ないです。

似ているのは、体験の重さではなく、「証言の構造」のほう。

つまり、その時代の「当たり前」は、当事者がいなくなった瞬間に、どれだけ資料が残っていたとしても、永遠に失われてしまうということです。

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僕は、昭和最後の世代、昭和63年生まれです。

すでに昭和→平成→令和と生きてきて、インターネットやAIが、生活の前提ではなかった時代を、まだ身体感覚としてギリギリ知っている世代。

たとえば、わからないことが、その日のうちにはわからないままだったことや、待ち合わせの相手が来なくても、その場で連絡する手段なんてなかったこと。

あとは、知らない土地では本気で道に迷ったことや、文章を書くときに、誰かに相談するという選択肢自体が、そもそも存在しなかったことなど身体感覚として知っています。

そして、AIについて特に重要だと思うのは、僕らは「AIを使わなかった」のではありません。

「AIに聞く」という発想そのものが、この世界の中に存在していなかったんです。

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100年後の人たちも、AIを使わない生活を再現することはできるはず。デジタルデバイスを置いて、検索もせず、生成AIにも聞かなければいいだけですから。

でも、それは決定的に体験としては違うわけですよね。彼らは「本当は、聞けば答えが出てしまう」と知ったうえで、あえて使わないことを選んでいるだけ。

知ってしまったあとから、「知らなかった世界」へは、もう二度と戻れないわけです。

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そんなふうに考えていくと、「語り部」という言葉のイメージも、少しずつ変わってくるなあと。

いままで語り部と聞くと、僕は年老いた戦争体験者の姿を思い浮かべていました。

語り部というのは、長く生き延びた人が、ある日どこかで任命されるものなのだと、なんとなく思い込んでいたんです。

でも、たぶん違うんですよね。

自分の経験した世界が「過去」になり始めた瞬間から、人は少しずつ、語り部になっていくのだと思います。

経験というものは、若いころは自分が獲得した財産のように感じられます。でも歳を重ねるにつれて、だんだんと「その時代から預かったもの」に変わっていく。

実際に経験したことがあるって、ただそれだけで価値を生むし、その経験を語り継ぐ贈与や責務みたいなものも、同時に僕らはもうすでに十分に受け取ってしまっているのだろうなあと思うのです。

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ただし、語り部には、それゆえに、明確な作法もあるはずです。

それは、「あのころはよかった」とマウントを取るように語らないこと。

戦争の語り部の方々の言葉が信頼されるのは、彼らが決して戦争体験によってマウントをとってこないからです。

AI以前を語るときもまったく同じで、「あの不便さにも良さがあった」なんて言い始めた瞬間に、その証言はただの懐古主義に堕ちてしまう。

不便だったことも、退屈だったことも、理不尽だったことも、そのまま残す。語り部の資格は、経験したことにあるのではなく、美化せずに自身の体験を語れることにあるのだと思います。

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そしてもうひとつ、大事なことがあります。

「当たり前」は、当たり前であるがゆえに、記録されないということです。

記録するなら「いま」しかない。

AI以前の感覚は、100年後に失われるのではなく、AIを毎日使っている僕ら自身の中から、もう静かに消え始めています。

AIがなかったころ、文章ってどうやって書いていたんだっけ、となっているひとは既に多いはず。

あとは「ひとりで考えるって、どんな時間だったんだっけ」など、ほんの数年前の自分の感覚が、すでに少しずつ思い出しづらくなっている。

身体が忘れてから書こうとしても、それはもう完全に遅いのです。

このあたりは「海外移住」や「子育て」なんかと非常によく似ている。そのある種の「環境」に置かれたからこそ生まれてくる感覚は、そのときに書かないと完全に忘れてしまう。

あれだけ鮮明かつ強烈な記憶でさえも、そのタイミングで書き残しておかないと、本当の意味で「書く」ことはもうできない。

チャンスの女神は前髪しかないことをほんとうに強く痛感します。

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というわけで、最近、また戦争の語り部の方々のお話を映像で見聞きしながら、マジで長生きしなきゃなあと思っています。

昭和生まれ最後の世代として、50年後、100年後に「AIがないころって、どんな感じだったんですか?」と聞かれたときに、ちゃんと自分の身体感覚を通して語り始められるように。

もし、僕が100年後も生きていたとすれば、そのとき138歳でバカげた年齢ではあるけれど、ただ、語り部になる仕事は、138歳になってから始まるわけではなくて、たぶん、もうすでに始まっている。

そして、こうして毎日書き続けている文章そのものが、未来から見れば「AIが人間社会に入り始めたころ、ひとりの人間が何を考えながらそれを眺めていたのか」という一次資料になっているかもしれないわけですから。

そして未来には、AIがその一次資料をもとに、僕以上に雄弁に語ってくれるはずです。僕はソレをおぼつかない頭で追認すればいいだけ。

僕が僕の書いたことから生成された情報を追認している、その「生身の身体」がちゃんと生きていることこそが大事なんだろうなあと思います。

それは決して物語やフィクションではなく、地続きの「現実」だったという実感を伴うわけだから。

だからこそ今から、僕は自分の体験を、なるべく記号接地するような形で丁寧に書き残しておきたいなあと思います。

いまの時代の自分自身が本当に感じていること、考えていることを、真空パックするような形で。

時代が劇的に変化し、それが前時代的だと否定されて覆されることがわかっているからこそ、今から書き残しておきたいなあと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんも、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。