「個人の時代」から「共同体(コミュニティ)の時代」に変化している昨今。

僕自身がそこに身を浸してきながら、その荒波の中で身体性を伴った形で感じ取ってきた一番大きな変化だなと思うことがあります。

それが何かと言えば、関わりのあるひとたちの「専門性」よりも、「初めての体験」のような部分から生まれる「感動」みたいなものを言祝ぐこと、共に味わうこと、そこに価値の大部分が、大きく移り変わっているなあということです。

今日はそんな地味で、でも間違いなく大きな変革について、このブログにも書いてみようかなと。

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この点、赤の他人の初体験から生まれる感動なんて、ホントにどうでもいいと感じるものです。

でも、継続的に関係性やつながりのある他者の初体験から生まれる感動というのは、自分ごとのように嬉しい。

その話をもっと聞かせて欲しいと純粋に思うようになります。

きっとこれは、我が子が初めて歩いたり、話したりしたときの根源的な感動なんかに、非常に近いのだと思います。あとは入学式の初々しい感動なんかもそうですよね。

一体何を当たり前なと思うかも知れないのですが、これって地味に大きな時代の変化だなあと思うのです。

きっと絶対に見落としてはいけないものです。

個人ではなく共同体というのは、その喜びも悲しみも喜怒哀楽すべてを含めて、共に分かち合うということだから、です。

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たとえば、Wasei Salonの中には、張本さんというメンバーがいて、サロン発足当初からずっとサロン内で活動し続けてくれているメンバーなのですが、彼はこの5年の間に、ゲストハウス運営→ライター→コーヒーショップスタッフ→地域おこし協力隊などなど、本当にたくさんの挑戦をしています。

その挑戦の変遷とそれぞれの活動から得られている気づきや発見のお話が、本当に我がことのようにいちいち嬉しいのですよね。

これって一昔前だと、ジョブホッパー的な見方をされてしまって、むしろネガティブに見られてしまうことだったと思います。

それは履歴書に書かれるような経歴だけをみんなが眺めてしまうからであり、個人が完全に共同体と切り離され、分断されていたからです。

でも、共同体としてゆるやかにお互いがつながり合うと、たくさんの挑戦をして、そこから多くの気付きや発見を共有してくれること自体が、ほかのメンバーにとっても嬉しくて、更にご本人の信頼にもつながるという逆転現象のようなものが、いま間違いなく生じている。

そして、きっと彼の新たな挑戦を素直に応援するというWasei Salonという空間自体も、さらに彼に何かしらの新たな挑戦をしようという「勇気」のようなものを与えるきっかけになっていると思うのです。というかそうであったら、嬉しいなあと心から願っている。

まさに、共進化のような状態ですよね。

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2023年以降の世の中ではたぶん、こういう場のほうが圧倒的に大事になる。

こういうことを、お互いに積極的に楽しみ合おうとする空間と言い換えてもいいかもしれない。

なぜなら、きっともう「専門性」のある詳しい解説というのは、これからはもうChatGPT(生成系AI)が担ってくれるようになっていくことは間違いないからです。

そして人々の感情の交換というのは「初めての体験を、自分ごとのように感動する」ことのほうに価値がドンドン移り変わるはずなのです。

そこにひとりひとりの「物語」が生まれて、ナラティブが存在していること。

これは昨日のブログの話にも関連してきて、人間の「認知特性」のひとつみたいなものなのでしょうね。

数千年前の「神話」を楽しんでいた時代から、何も変わらない人間の特質。

「他者の物語」を自分ごとのように楽しみたいと根源的に思っているということなのでしょうし、その私に関係あると思える他者がどれぐらい、いるかどうかが重要になってくる。お金や物質的な豊かさよりも、です。

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ここで、同じことをちょっとシニカルな方面から語り直すと、こういう場所しかもう、僕らに心の底から立ちあらわれてくる豊かさや幸福感のようなものを与えてくれる場所は残ってはいないとさえ言えそうです。

「僕らが追い求めているのは、生きている意味ではなく、生きている体験だ」という神話学者・ジョーゼフ・キャンベルの言葉は、過去に何度も何度も繰り返しブログ内でお伝えしてきましたが、だとしたら「生きている意味=専門性」よりも、「そのひとの挑戦の連続=生きている体験」を共有していくことに、幸福感も移り変わっていくことは間違いないはずです。

これは、赤の他人では絶対にダメで、同じ共同体に属していて、平時から同じコミュニティに属していると感じられている「仲間」でなければならない。

従来型のフォロー・フォロワーの関係性でもダメだと思います。それは「推し活」のような一方通行になってしまう。

そうではなく、お互いが「目の前にいる相手は、半分自分だ」と思えるぐらいの当事者性、その距離感が大事になってくる。

もちろん、だからといって完全に同化することは絶対にダメで、ひとりひとりの個性を尊重することも非常に大事なことには変わりない。その付かず離れずの絶妙な距離感が、九鬼周造のいうところの「粋」にもつながる。

言い換えると、それぞれの個体が、この世界において、ちゃんと膜で隔てられている意味みたいなものも絶対に忘れてはいけないのだと思います。

以前、哲学者・東浩紀さんがとある対談の中で「僕らはバラバラな群体である」と語られていて、強く膝を打ったのだけど、まさにそのとおりで。

以前もブログに書いたことがある木津歩さんの名言「群れずに、群れたい」という根源的な欲求の実現が、これからはもっともっと重要になってくるということなのでしょうね。

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だからこそ、何度だって繰り返しますが、ひとりひとりが挑戦する「勇気」と、そのための「親切」と「敬意」が、「循環」する空間が本当に重要になってくると思っています。集まる人々の強い意志によって。

具体的には、自らが他者へ敬意を持って親切に接した結果、誰かが初めての挑戦をする勇気を持つことにつながり、その挑戦を自分ごとのように喜び、さらに自らも、そこから新たに挑戦する勇気を得て、その挑戦から立ち現れる身体性を伴った喜びや驚きを、不特定多数ではなく「顔」と「名前」のある身近な他者に共有する。

その健やかな循環の中に私自身が身を置けるかどうか、それがこれからの真の豊かさや幸福感につながるのだと思います。

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この点、最近オーディオブックで聴き終えた『何もしないほうが得な日本 社会に広がる「消極的利己主義」の構造』という本の中でも語られていたのは、今の日本人は総論では「挑戦があるべき姿だ」と語りつつも、各論においては「挑戦されると迷惑だ」と内心では思っているそうです。

それはアンケート調査をしてみると明らかに、傾向として浮き彫りになるそうです。

詳しくはぜひ本書を読んだり聴いたりしてみて欲しいのですが。古い職場で働いているひとほど、きっと強く思い当たる節があるのではないでしょうか。

総論と各論逆のことを言っている、そのアンビバレントな状況に身を置いて、心身が病まないわけがありません。どうあがいても、感情が引き裂かれますからね。

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そして、さらにこの話に関連して最近僕がよく思うのは、「嫌われる勇気」という言葉がひとり歩きした結果、生み出された最大の悪は「嫌われることを恐れずに、真正面から正論をぶつけよう!」という誤った解釈が生まれたことだったと思っています。

「いいから、とにかく黙って挑戦しろ!」というような。

それは、圧倒的な事実で正論なんだけれども、そうやって相手の立場を完全に無視した正論は、相手の心を固く閉ざすだけです。

正論を伝えるためにこそ、最大限の配慮が大切。

ここを見落としてしまっているひとは現代にあまりに多い。

強い正論は、相手を萎縮させるだけだったということを、僕らは今一度、過去10年間ぐらいの失敗を振り返りながら、強く反省しないといけないと思います。

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最後にまとめると、嫌われることを恐れて、曖昧な発言に逃げるわけでもなく、

嫌われることを厭わずに、ド直球な正論に逃げるわけでもなく、

いちばん大事なスタンスは、嫌われることをいとわずに、でも相手の立場を慮った親切で敬意を払った芯のある正論をお互いに提示し合うという第三の道。

でも、そうやって伝えようとしたメッセージはきっと必ず伝わります。

それは、どうか伝わりますようにという「祈り」を込めて、自らの保身ではない限り必ず伝わる。

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逆に、その内容がどれだけ正しかったとしても、相手の立場を配慮しない土足で踏み込んだ正論というのは、絶対に相手には伝わらない。

愛を伝え合うときには、小さな「花」を添えましょう。

「北風と太陽」の北風になることが「嫌われる勇気」ではない。

お互いがお互いの太陽のようになって「勇気」を創発し合う関係性が、いま本当に強く求められていると思います。

もちろん、Wasei Salonはこれからもそんな場として「AIとWeb3が遍く浸透していく世の中において、本当に必要な場所(コミュニティ)とは何か」を全力で考え抜いたうえで、運営していきたいと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。